★積もりに積もってアーカイブ。言うなれば過去の記録の保存庫です。
by tomhana0906
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[PROFILE]
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脳梗塞を発症してはや10年目を迎えた。肉体的には負い目のようなものも確かにあるが、気分的はそうでもない。耳の奥から『御破算に願いましては』という甘い囁きは聞こえてこない。この病気になって、誰かに追われるかのように無我夢中にやってきたこれまでの人生を今一度、見直すいい機会を与えてくれた事だけは確かだ。どんな人でも人生の終わりを迎えなければならない。私もその時が来るまで悔いのない人生を送りいたいと願うばかりだ。
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[人生の御負け]
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◎総ブログ:全5632話
《2012.2.29現在》
NEWS! 最近、全面的に見直して、完全ではないものの一応目次として耐えうるものにしたつもりです。ぜひ一度ご覧ください。
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[CONTENTS:人生の足跡]
━━━━━━━━━━━━━━━
◎[リハビリ日記]人に言えない脳梗塞の後遺症と戦う日々の話など‥
◎[名古屋巡礼記]ひとりで巡り歩いて来た篤き信仰の記録を集大成‥
◎[名古屋見聞録]名古屋人も名古屋人でない方も必見の話題が満載‥
◎[達人への道]『人生は達観だ』と言い続けて久しい私の放浪記‥
◎[GOB備忘録]時代の先駆者だったグッド・オールド・ボーイズ‥
◎[私だけのCD]珠玉の名盤『BIN'S CD』1枚1枚にまつわる秘話‥
◎[埋もれた名盤]忘れ去られた名曲を私の篤い思いで蘇らせたらな‥
◎[私の読書感想]人生の峠を越えてきた男の見方と読方を紐解くと‥
◎[心の曼陀羅]歴史の中での名もなき人々が織り成す心の曼陀羅‥
◎[MANHOLE]ある日、立ち止まった私の足元で奴等が微笑んでいた‥
◎[弔いのカタチ]棺桶に片足を突っ込んだことのある私だからこそ‥
◎[猫のアルバム]神の思し召しがあったからこそ出合えた円らな瞳‥
◎[遠い日の記憶]貴方は子供の頃のことを今でも覚えていますか?‥
◎[歴史のオマケ]長年鍛えた心眼で見極めた秘宝の数々をご開帳だ‥
◎[フォトレター]日々の写真に思いを託して朝も早よから散歩です‥
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[CONTENTS:人生は勉強]
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◎[日々の雑記帳]思い付くまま気の向くまま巷の影から探してきた‥
◎[知らない物語]世の中から忘れ去られてしまった日陰に咲いた花‥
◎[時代は江戸時代]テレビの時代劇では判っていても、真実は何も知らない‥
◎[補習:江戸時代]江戸時代を再発見するための勉強だと思ってくれ‥
江戸の┃歴史┃秘話┃言葉┃
◎[甦る激動の幕末]私が生まれた年の100年前はペリーが浦賀に現われた‥
幕末の┃実像┃攘夷┃写真┃
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[CONTENTS:人生はオマケ]
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◎[ポートレート怪物編]忘却の彼方からこつ然と甦ってきた怪物の正体は?
○歴史上の人物は ココ
◎[クイズ日本人]狭い日本に生まれながら出身地によってこの違いは何?
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[更新記録]
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○2012.04:104話new
○2012.03:115話
○2011.02:111話
○2012.01:113話
○2011.12:97話
○2011.11:74話
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○2011.03:98話
○2011.02:96話
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◎2010.07-12:565話
◎2010.01-06:561話
◎2009.07-12:488話
◎2009.01-06:363話
◎2008.07-12:473話
◎2008.01-06:413話
◎1007.07-12:287話
◎1007.01-06:305話
◎2006.01-12:460話
◎2005.01-12:167話
◎2004.01-12:77話
◎2003:17話
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◎2010.07-12:565話
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ハタ揚げ
▼たこの起源はヨーロッパでも中国でも紀元前に遡る。日本へは古く中国から伝来した。中でもハタと呼ばれる長崎のたこは独特である。
▼長崎のハタ揚げは他の地方と異なり、高く揚げるのではなく、他のハタと掛け合って相手のハタを切り取るハタを切り取るハタ合戦である。掛け合いのためにガラス粉を飯粒でねり麻糸に塗りつけた「ビードロよま」が発明された。
▼長崎のハタは遠く慶長の頃には揚げられていたと渡辺庫輔『長崎ハタ考』にある。一方、長崎にハタ揚げの遊びを伝えたのは出島蘭館の使用人のカルパ/インドネシア人ではなかったかともいわれる。
▼長崎のハタはデザインも豊富である。紺、赤、黒3色の色紙で山形、丹後、二重縞。ベッソ、帯‥と様々な図柄のハタが作られる。「長崎ハタ考」には実に120種もの図柄が納められている。50文、32文、24文など、大きさも独特の呼び方がある。
▼長崎のハタ揚げは大人の遊びである。『越中哲也の長崎ひとりあるき』に大正初年頃の唐八景のハタ揚げの話がある。林源吉老人が見ていると、女子衆を引きつれた一行が登ってきた。だがもう足の踏み場もないほどである。
▼すると一行の主人格らしい人は太鼓持ちを呼んで、山のすぐ脇の麦畑をハタ揚げの陣にしようと農家に交渉させた。間もなく青い麦はさくさくと刈り取られ、その上に赤い毛氈が敷かれた。やがて女たちの三味・太鼓が始まり、男たちは酒を酌み交わすのであった。
▼風頭に始まり金比羅、合戦場などで順次に春のハタ揚げはあった。今は春の長崎新聞ハタ揚げ大会などが知られている。長崎人は青空に色とりどりのハタを泳がせ、ハタの切り合いに熱中し、世俗のことは忘れるのである。
▼松浦直治『長崎方言 ばってん帳』に「ハタて言うとは長崎だけで、よそはみんなタコじゃろもん」「昔は天領地ではハタちゅうところが多かった。ところが城下町じゃあハタ揚げていえば明智光秀このかたムホンに通ずるちゅうて禁句になっとった。
▼天領地でも大阪は江戸に遠慮してイカのイカノボリのていう。江戸にいくと旗本8万騎でもご家人の安扶持取りばイカていう。この連中は目見得の出来ん目見得以下、そるば略してイカていうてシコ名たい。
▼また、目見得以上で長崎奉行の何のてなる大身ば、イカがタコていい返す。そこでイカよりタコが立身出世するちゅう訳で、のぼせてタコていうたとげな」「そのあと明治の末の国定教科書でハタ、タコ、コマが出てからタコが日本中にいきわたったとたいのう」とある。
がんばれ日本
▼アメリカの新聞を見ていたら日本の震災復興スローガン「がんばれ日本、がんばれ東北」を Don’t give up Japan! Don’t give up Tohoku! と訳して紹介していた。
▼元々、日本語の「がんばれ」に相当する英語表現はないといわれており、そんな中で担当者が苦心の末に意訳したのが Don’t give up! だったのだろうがこの場合、がんばれと Don’t give up! は全く違うもの、強いて言えば誤訳だと思う。
▼日本人はなにかにつけて「がんばろう!」とか「がんばれ!」と言うが、そのシチュエーションは様々であってシチュエーション毎にがんばれの持つニュアンスは違う。
▼日本人同士ならば場面によって微妙に違うがんばれのニュアンスを一瞬にして汲み取ることができるが、Don’t give up! と訳してしまうと、それは単に「諦めないぞ!」とか「諦めないで!」というニュアンスに限定されてしまい「がんばれ日本」というスローガンの意味するところとはかけ離れてしまう。
▼英語で、励ましのニュアンスを伝えようというのなら You can do it! 位が「がんばれ」に近いかも知れないが、親が子供を励ますような場合を除いて余り使われない。大人のアメリカ人に You can do it! と声をかけたら場合によっては、あるいは人によっては「余計なお世話だ! ほっといて呉れ!」と反発してくるなどということすら考えられる。
▼Do your best! などという訳が使われることもあるが、石川遼君に「がんばれ!」と声をかけるのと同じつもりで例えばタイガー・ウッズに Do your best! などと声をかけようものなら、ウッズも回りのファン達も「プロがベストを尽くすのは当たり前なのにあの日本人、上から目線で何を言っているのだ!」と逆ギレするだろう。
▼まして、そんな場面で「がんばれ」のつもりで Don’t give up! などと叫んだとしたら英語の下手な日本人のトンチンカンな英語として爆笑ネタ扱いされるか悪くすると大ブーイングの的にされてしまうだろう。
▼Hang in there という言い方が今回の場合の「がんばれ!」のニュアンスに多少近いかも知れないが、それでも震災復興スローガンとしてはしっくりしない。
▼そういえば、オバマさんの Yes, We can! は「我々はできる!」と訳すよりも「皆でがんばろう!」にニュアンスは近いから、Yes, We Japan can! などと訳す手もあるようにも思うが、それでもやっぱり「がんばれ日本」のニュアンスには遠いようにも思う。
▼あらためて「がんばれ!」が日本独特の社会文化風土に根ざした他言語に翻訳不能な言葉だということに気付かされた。
オーパーツ3
▼オーパーツとは「Out Of Place Artifacts」の頭文字をとったもので、場違いな加工品・工芸品という意味になるが、それには知識や情報なども含まれる。考古学上で説明のつかない、時代に合っていない不思議な発見物のことをいう。
[南極大陸が描かれた古代の地図/2]
▼アーリントンはこの地図を軍のそれぞれの専門家に見せ、紙の材質やインク、地図に書かれている島の名前や海流の名前などを詳しく調べてもらった結果、この地図の原本となったのは、南極大陸が氷に覆われる以前の時代の地球の地図だろうという結論を得た。その地図を参考にして1513年にこの、目の前にある問題の地図は製作されたのだろう、と。
▼一応、結論は出たが不思議は不思議のままとして残った。そして1957年、この年から人類にとって画期的なことが起こる。旧ソ連のスプートニク1号が初めて宇宙飛行に成功したのだ。その後、人類は有人飛行を果たしたり人工衛星を次々と打ち上げたりして宇宙から撮影した地球の写真も新聞などに載るようになった。
▼アーリントンは気付いた。地球は球状である。上空から球を見て、真下に近い部分では盛り上がって大きく見え、球の端に近づくほど、そこにある大陸は歪んで、まるで圧縮されているかのように見える。
▼だとしたら、この妙に端の方が歪んでいる地図というのはアフリカの上空あたりから地球を見た時の光景なのかもしれない。球状のものを平面に書き写すとなるとこういう表現になるだろう。ということは、太古に地球をそれだけの上空から見て、それを撮影した者がいるということだろうか。
▼マレリーは地図をアメリカ地図学会のハプグッド教授に預け調査を依頼した。ハプグッド教授は数学者であるストラッカン博士と共にこの地図を調べ、いくつかの結論を得た。この地図中に描かれている南極大陸の中には1952年に初めて発見された山脈が既に描かれている。
▼また、その後に発見された小さな島や高原も描かれてある。もちろん、現在はこれらのものは全て氷の下にあるので、レーダーを使わないとそのその存在を知ることは出来ない。
▼また、地図自体が人工衛星から撮った写真に似ていることについても、大陸の描かれている配置からして、アフリカの南西部の上空2000~3000mの位置から地球を撮影し、それを参考にしたのではないかと推測される。
▼教授はこの地図の調査をレポートにまとめ、南極が氷に覆われる以前に、何者かが地球の高空から写真を撮り、それを参考に描かれたものだと結論付けた。しかし、古い地図で南極大陸が描かれているものはこの地図だけではない。
▼1538年にフランスのジェラール・メルカトールが製作した地図にも、当時は発見されていなかったはずの南極大陸が描かれており、地図の注意書きに「古い地図を参考にした」と書かれてある。
▼また、1531年にフランスのオロンテウスが製作した地図も同様で、こちらは南極大陸が実際の面積の4倍くらいに描かれていることから、測量して作ったものではなく、何かを参考に描いたことがうかがえる。
▼これらの地図の原本となったものは高空からの写真かスケッチであろうが、太古の時代に誰かが、それを当時の民族に渡し、それが受け継がれてきたのだろうと思われる。
洋楽
▼ヨーロッパの旅から帰った天正少年使節の一行は翌天正19/1591年京に上り、聚楽第で秀吉に挨拶した。公式の宴の後、秀吉が西洋音楽を聞きたいと望んだので少年達は持ち帰ったフラウト/フルート、レベカ/小型のバイオリン、ラウテ/リュート、クラボ/鍵盤音楽の4つの楽器を使って、ヨーロッパ音楽を演奏した。
▼太閤殿はいたく興にのりアンコールを重ねたという。少年達が秀吉の前で歌ったのはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ」、訳せば「千々の悲しみ」ではないかと、バロック音楽研究の第1人者、皆川達夫氏はそう推理している。
▼少年達は神学校で西洋音楽を習っていたし、8年余りの旅の間にも、様々な国で西洋音楽に接し訓練を受けていたので、音楽の実力は高かった。有馬のセミナリヨでは毎日1時間、音楽のレッスンがあり、声楽と楽器を教えられていたほどである。
▼慶長10/1605年になると、長崎のコレジヨでヨーロッパ音楽であるキリスト教聖歌の楽譜が印刷されている。「サクラメンタ提要」と訳される洗礼とか葬式とか結婚式とかの秘蹟を執行するための手引書で、ラテン語の聖歌が19曲収められている。
▼楽譜は赤インクで5線を引き、黒インクで何か旗のような音符が並んだ2色刷りの楽譜集である。このようにヨーロッパの音楽が日本にも定着し、日本人は楽譜を印刷し、また楽器をマスターしたばかりでなく、自分自身で作り上げ、恐らく作曲もした。
▼だが、禁教令とともに音楽も邪教の具として楽譜も楽器も廃棄された。長い鎖国を経て明治時代にまた新しく洋楽が入ってくるまで空白は続く。この間、唯一残っていたのは生月の隠れキリシタンの祈りであった。
▼皆川達夫『バロック音楽と長崎-天正少年使節の聞いた調べ-』には「生月のオラショを聴いて、先程のヨーロッパとは変わりも変わった大変な変わりようですね。完全に日本の音楽なってしまいます。(中略)
▼スタンダードではない、スペインのローカル聖歌、地方聖歌、おらが村さの聖歌を400年前にスペイン出身の神父が日本に持ってきて、そして生月の漁民、農民の皆さん方に歌わせた。そして厳しい弾圧があった。
▼もう公にすることができない。だけど、布団をかぶってお父さんから息子へ、息子から孫へと歌い継ぎ、そして今この時代になってもまだ歌われている(中略)音楽を聞かせたからといって病人が治る訳でもない。金儲けになる訳でもない。死人が蘇る訳でもない。
▼だけど実は、その一見弱いはずの音楽、これが人々を奮い立たせて、あの厳しい弾圧時代を耐えさせて今日まで至らせた。この事実を見た時、私は非常に感動を覚えました」とある。
西郷隆盛と仲祐
▼西郷は2度配流されているが、文久2/1862年7月5日頃、西郷は徳之島湾屋に上陸した。その後、閏8月14日、西郷は更に南の沖永良部島に配流されることになったので、徳之島滞在は2カ月間ほどだった。その間、西郷は大島龍郷に残した島妻・愛加那と再会を果たし、生まれたばかりの菊草とも対面している。
▼西郷は徳之島の西北側にあたる西目間切の惣横目・琉仲為の世話で、岡前の松田勝伝宅に厄介になっている。仲為は在地の有力者で郷士格の身分だった。惣横目とは藩庁から派遣されてくる代官や与人/島役人の代表を補佐する地元出身の役人。わずかだが藩米を支給され、苗字帯刀を許された。
▼仲為の子に仲祐がいた。西郷が沖永良部島送りになる時、仲祐が西郷を徳之島の東側の井之川まで護送している。西郷はここから沖永良部島に向かった。仲為、仲祐父子は西郷を親身になって世話したらしい。西郷は井之川と沖永良部島流罪中、仲為と何度が手紙のやりとりをしている。
▼例えばば翌3年6月2日付では、仲為が愛加那母子の大島帰島を取り計らってくれたばかりか、過分の土産を持たせてくれたことに感謝している。同年10月16日付では、仲為が国許変事の刑行/なりゆき/薩英戦争のことかを伝えてくれたことを感謝している。また、仲為が仲祐を沖永良部島に寄こしてくれることにも礼を述べている。
▼そうした交流があったからか、復権した西郷は仲為の恩に報いようとして仲祐を自分の手許で預かった。ところが、慶応2/1866年12月26日、仲祐は急病を発して病没してしまう。西郷が郷里の親友・川口雪蓬に宛てた書簡がある。他界した仲祐のことを依頼した内容である。
▼それによれば、西郷が流罪を赦免された時、仲祐を同伴して鹿児島に連れてきた。鹿児島に留めようとしたが、本人のたっての希望で上京させた。京都を見物すれば、島土産にも相成るべしとの老婆心のつもりだったが、病死という意外な成り行きになり、連れてきたことへの後悔の念を表し、取り返しがつかないことをして「心苦しく涙に沈み候」と嘆いている。
▼また「さぞや島の親達がこの悲報を聞けば、愁傷いかばかりかと、これのみ案じているところ」だと書き、仲為の心情を思いやっている。また、遺髪に遺体調書を添えて島便で届けてほしいと依頼している。西郷は二本松の薩摩藩邸と隣り合う相国寺の塔頭で、島津家と縁が深い林光院に香華料千疋/銭10貫文相当を寄進し、仲祐の墓を建て、自筆で「西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓」と刻んだ。
▼また、帰郷した折に西郷家墓所にも仲祐の供養墓を建てた。これは鹿児島市常盤町の西郷家墓所に現存し、「玄道智徳居士」という法号がある。なお、仲祐は西郷の警護をしていた時、新選組に斬殺されたという説もあるが、確かな史料で確認することはできない。病死説が妥当ではないか。徳之島から希望に燃えて上京した若者の客死は悼んで余りある。
▼たこの起源はヨーロッパでも中国でも紀元前に遡る。日本へは古く中国から伝来した。中でもハタと呼ばれる長崎のたこは独特である。
▼長崎のハタ揚げは他の地方と異なり、高く揚げるのではなく、他のハタと掛け合って相手のハタを切り取るハタを切り取るハタ合戦である。掛け合いのためにガラス粉を飯粒でねり麻糸に塗りつけた「ビードロよま」が発明された。
▼長崎のハタは遠く慶長の頃には揚げられていたと渡辺庫輔『長崎ハタ考』にある。一方、長崎にハタ揚げの遊びを伝えたのは出島蘭館の使用人のカルパ/インドネシア人ではなかったかともいわれる。
▼長崎のハタはデザインも豊富である。紺、赤、黒3色の色紙で山形、丹後、二重縞。ベッソ、帯‥と様々な図柄のハタが作られる。「長崎ハタ考」には実に120種もの図柄が納められている。50文、32文、24文など、大きさも独特の呼び方がある。
▼長崎のハタ揚げは大人の遊びである。『越中哲也の長崎ひとりあるき』に大正初年頃の唐八景のハタ揚げの話がある。林源吉老人が見ていると、女子衆を引きつれた一行が登ってきた。だがもう足の踏み場もないほどである。
▼すると一行の主人格らしい人は太鼓持ちを呼んで、山のすぐ脇の麦畑をハタ揚げの陣にしようと農家に交渉させた。間もなく青い麦はさくさくと刈り取られ、その上に赤い毛氈が敷かれた。やがて女たちの三味・太鼓が始まり、男たちは酒を酌み交わすのであった。
▼風頭に始まり金比羅、合戦場などで順次に春のハタ揚げはあった。今は春の長崎新聞ハタ揚げ大会などが知られている。長崎人は青空に色とりどりのハタを泳がせ、ハタの切り合いに熱中し、世俗のことは忘れるのである。
▼松浦直治『長崎方言 ばってん帳』に「ハタて言うとは長崎だけで、よそはみんなタコじゃろもん」「昔は天領地ではハタちゅうところが多かった。ところが城下町じゃあハタ揚げていえば明智光秀このかたムホンに通ずるちゅうて禁句になっとった。
▼天領地でも大阪は江戸に遠慮してイカのイカノボリのていう。江戸にいくと旗本8万騎でもご家人の安扶持取りばイカていう。この連中は目見得の出来ん目見得以下、そるば略してイカていうてシコ名たい。
▼また、目見得以上で長崎奉行の何のてなる大身ば、イカがタコていい返す。そこでイカよりタコが立身出世するちゅう訳で、のぼせてタコていうたとげな」「そのあと明治の末の国定教科書でハタ、タコ、コマが出てからタコが日本中にいきわたったとたいのう」とある。
がんばれ日本
▼アメリカの新聞を見ていたら日本の震災復興スローガン「がんばれ日本、がんばれ東北」を Don’t give up Japan! Don’t give up Tohoku! と訳して紹介していた。
▼元々、日本語の「がんばれ」に相当する英語表現はないといわれており、そんな中で担当者が苦心の末に意訳したのが Don’t give up! だったのだろうがこの場合、がんばれと Don’t give up! は全く違うもの、強いて言えば誤訳だと思う。
▼日本人はなにかにつけて「がんばろう!」とか「がんばれ!」と言うが、そのシチュエーションは様々であってシチュエーション毎にがんばれの持つニュアンスは違う。
▼日本人同士ならば場面によって微妙に違うがんばれのニュアンスを一瞬にして汲み取ることができるが、Don’t give up! と訳してしまうと、それは単に「諦めないぞ!」とか「諦めないで!」というニュアンスに限定されてしまい「がんばれ日本」というスローガンの意味するところとはかけ離れてしまう。
▼英語で、励ましのニュアンスを伝えようというのなら You can do it! 位が「がんばれ」に近いかも知れないが、親が子供を励ますような場合を除いて余り使われない。大人のアメリカ人に You can do it! と声をかけたら場合によっては、あるいは人によっては「余計なお世話だ! ほっといて呉れ!」と反発してくるなどということすら考えられる。
▼Do your best! などという訳が使われることもあるが、石川遼君に「がんばれ!」と声をかけるのと同じつもりで例えばタイガー・ウッズに Do your best! などと声をかけようものなら、ウッズも回りのファン達も「プロがベストを尽くすのは当たり前なのにあの日本人、上から目線で何を言っているのだ!」と逆ギレするだろう。
▼まして、そんな場面で「がんばれ」のつもりで Don’t give up! などと叫んだとしたら英語の下手な日本人のトンチンカンな英語として爆笑ネタ扱いされるか悪くすると大ブーイングの的にされてしまうだろう。
▼Hang in there という言い方が今回の場合の「がんばれ!」のニュアンスに多少近いかも知れないが、それでも震災復興スローガンとしてはしっくりしない。
▼そういえば、オバマさんの Yes, We can! は「我々はできる!」と訳すよりも「皆でがんばろう!」にニュアンスは近いから、Yes, We Japan can! などと訳す手もあるようにも思うが、それでもやっぱり「がんばれ日本」のニュアンスには遠いようにも思う。
▼あらためて「がんばれ!」が日本独特の社会文化風土に根ざした他言語に翻訳不能な言葉だということに気付かされた。
オーパーツ3
▼オーパーツとは「Out Of Place Artifacts」の頭文字をとったもので、場違いな加工品・工芸品という意味になるが、それには知識や情報なども含まれる。考古学上で説明のつかない、時代に合っていない不思議な発見物のことをいう。
[南極大陸が描かれた古代の地図/2]
▼アーリントンはこの地図を軍のそれぞれの専門家に見せ、紙の材質やインク、地図に書かれている島の名前や海流の名前などを詳しく調べてもらった結果、この地図の原本となったのは、南極大陸が氷に覆われる以前の時代の地球の地図だろうという結論を得た。その地図を参考にして1513年にこの、目の前にある問題の地図は製作されたのだろう、と。
▼一応、結論は出たが不思議は不思議のままとして残った。そして1957年、この年から人類にとって画期的なことが起こる。旧ソ連のスプートニク1号が初めて宇宙飛行に成功したのだ。その後、人類は有人飛行を果たしたり人工衛星を次々と打ち上げたりして宇宙から撮影した地球の写真も新聞などに載るようになった。
▼アーリントンは気付いた。地球は球状である。上空から球を見て、真下に近い部分では盛り上がって大きく見え、球の端に近づくほど、そこにある大陸は歪んで、まるで圧縮されているかのように見える。
▼だとしたら、この妙に端の方が歪んでいる地図というのはアフリカの上空あたりから地球を見た時の光景なのかもしれない。球状のものを平面に書き写すとなるとこういう表現になるだろう。ということは、太古に地球をそれだけの上空から見て、それを撮影した者がいるということだろうか。
▼マレリーは地図をアメリカ地図学会のハプグッド教授に預け調査を依頼した。ハプグッド教授は数学者であるストラッカン博士と共にこの地図を調べ、いくつかの結論を得た。この地図中に描かれている南極大陸の中には1952年に初めて発見された山脈が既に描かれている。
▼また、その後に発見された小さな島や高原も描かれてある。もちろん、現在はこれらのものは全て氷の下にあるので、レーダーを使わないとそのその存在を知ることは出来ない。
▼また、地図自体が人工衛星から撮った写真に似ていることについても、大陸の描かれている配置からして、アフリカの南西部の上空2000~3000mの位置から地球を撮影し、それを参考にしたのではないかと推測される。
▼教授はこの地図の調査をレポートにまとめ、南極が氷に覆われる以前に、何者かが地球の高空から写真を撮り、それを参考に描かれたものだと結論付けた。しかし、古い地図で南極大陸が描かれているものはこの地図だけではない。
▼1538年にフランスのジェラール・メルカトールが製作した地図にも、当時は発見されていなかったはずの南極大陸が描かれており、地図の注意書きに「古い地図を参考にした」と書かれてある。
▼また、1531年にフランスのオロンテウスが製作した地図も同様で、こちらは南極大陸が実際の面積の4倍くらいに描かれていることから、測量して作ったものではなく、何かを参考に描いたことがうかがえる。
▼これらの地図の原本となったものは高空からの写真かスケッチであろうが、太古の時代に誰かが、それを当時の民族に渡し、それが受け継がれてきたのだろうと思われる。
洋楽
▼ヨーロッパの旅から帰った天正少年使節の一行は翌天正19/1591年京に上り、聚楽第で秀吉に挨拶した。公式の宴の後、秀吉が西洋音楽を聞きたいと望んだので少年達は持ち帰ったフラウト/フルート、レベカ/小型のバイオリン、ラウテ/リュート、クラボ/鍵盤音楽の4つの楽器を使って、ヨーロッパ音楽を演奏した。
▼太閤殿はいたく興にのりアンコールを重ねたという。少年達が秀吉の前で歌ったのはジョスカン・デ・プレ作曲の恋の歌「ミュ・ルグレ」、訳せば「千々の悲しみ」ではないかと、バロック音楽研究の第1人者、皆川達夫氏はそう推理している。
▼少年達は神学校で西洋音楽を習っていたし、8年余りの旅の間にも、様々な国で西洋音楽に接し訓練を受けていたので、音楽の実力は高かった。有馬のセミナリヨでは毎日1時間、音楽のレッスンがあり、声楽と楽器を教えられていたほどである。
▼慶長10/1605年になると、長崎のコレジヨでヨーロッパ音楽であるキリスト教聖歌の楽譜が印刷されている。「サクラメンタ提要」と訳される洗礼とか葬式とか結婚式とかの秘蹟を執行するための手引書で、ラテン語の聖歌が19曲収められている。
▼楽譜は赤インクで5線を引き、黒インクで何か旗のような音符が並んだ2色刷りの楽譜集である。このようにヨーロッパの音楽が日本にも定着し、日本人は楽譜を印刷し、また楽器をマスターしたばかりでなく、自分自身で作り上げ、恐らく作曲もした。
▼だが、禁教令とともに音楽も邪教の具として楽譜も楽器も廃棄された。長い鎖国を経て明治時代にまた新しく洋楽が入ってくるまで空白は続く。この間、唯一残っていたのは生月の隠れキリシタンの祈りであった。
▼皆川達夫『バロック音楽と長崎-天正少年使節の聞いた調べ-』には「生月のオラショを聴いて、先程のヨーロッパとは変わりも変わった大変な変わりようですね。完全に日本の音楽なってしまいます。(中略)
▼スタンダードではない、スペインのローカル聖歌、地方聖歌、おらが村さの聖歌を400年前にスペイン出身の神父が日本に持ってきて、そして生月の漁民、農民の皆さん方に歌わせた。そして厳しい弾圧があった。
▼もう公にすることができない。だけど、布団をかぶってお父さんから息子へ、息子から孫へと歌い継ぎ、そして今この時代になってもまだ歌われている(中略)音楽を聞かせたからといって病人が治る訳でもない。金儲けになる訳でもない。死人が蘇る訳でもない。
▼だけど実は、その一見弱いはずの音楽、これが人々を奮い立たせて、あの厳しい弾圧時代を耐えさせて今日まで至らせた。この事実を見た時、私は非常に感動を覚えました」とある。
西郷隆盛と仲祐
▼西郷は2度配流されているが、文久2/1862年7月5日頃、西郷は徳之島湾屋に上陸した。その後、閏8月14日、西郷は更に南の沖永良部島に配流されることになったので、徳之島滞在は2カ月間ほどだった。その間、西郷は大島龍郷に残した島妻・愛加那と再会を果たし、生まれたばかりの菊草とも対面している。
▼西郷は徳之島の西北側にあたる西目間切の惣横目・琉仲為の世話で、岡前の松田勝伝宅に厄介になっている。仲為は在地の有力者で郷士格の身分だった。惣横目とは藩庁から派遣されてくる代官や与人/島役人の代表を補佐する地元出身の役人。わずかだが藩米を支給され、苗字帯刀を許された。
▼仲為の子に仲祐がいた。西郷が沖永良部島送りになる時、仲祐が西郷を徳之島の東側の井之川まで護送している。西郷はここから沖永良部島に向かった。仲為、仲祐父子は西郷を親身になって世話したらしい。西郷は井之川と沖永良部島流罪中、仲為と何度が手紙のやりとりをしている。
▼例えばば翌3年6月2日付では、仲為が愛加那母子の大島帰島を取り計らってくれたばかりか、過分の土産を持たせてくれたことに感謝している。同年10月16日付では、仲為が国許変事の刑行/なりゆき/薩英戦争のことかを伝えてくれたことを感謝している。また、仲為が仲祐を沖永良部島に寄こしてくれることにも礼を述べている。
▼そうした交流があったからか、復権した西郷は仲為の恩に報いようとして仲祐を自分の手許で預かった。ところが、慶応2/1866年12月26日、仲祐は急病を発して病没してしまう。西郷が郷里の親友・川口雪蓬に宛てた書簡がある。他界した仲祐のことを依頼した内容である。
▼それによれば、西郷が流罪を赦免された時、仲祐を同伴して鹿児島に連れてきた。鹿児島に留めようとしたが、本人のたっての希望で上京させた。京都を見物すれば、島土産にも相成るべしとの老婆心のつもりだったが、病死という意外な成り行きになり、連れてきたことへの後悔の念を表し、取り返しがつかないことをして「心苦しく涙に沈み候」と嘆いている。
▼また「さぞや島の親達がこの悲報を聞けば、愁傷いかばかりかと、これのみ案じているところ」だと書き、仲為の心情を思いやっている。また、遺髪に遺体調書を添えて島便で届けてほしいと依頼している。西郷は二本松の薩摩藩邸と隣り合う相国寺の塔頭で、島津家と縁が深い林光院に香華料千疋/銭10貫文相当を寄進し、仲祐の墓を建て、自筆で「西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓」と刻んだ。
▼また、帰郷した折に西郷家墓所にも仲祐の供養墓を建てた。これは鹿児島市常盤町の西郷家墓所に現存し、「玄道智徳居士」という法号がある。なお、仲祐は西郷の警護をしていた時、新選組に斬殺されたという説もあるが、確かな史料で確認することはできない。病死説が妥当ではないか。徳之島から希望に燃えて上京した若者の客死は悼んで余りある。
# by tomhana0906 | 2012-05-25 05:32
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