日々の雑記帳:239

戦国の戦法2

戦国の戦法:影武者攪乱戦法

▼真田幸村とその旗本衆による本隊と同じ陣立ての隊を数組作って、各隊にも同じ「真田六連銭」ののぼりや馬印を持たせて同時に多方向から敵に突撃し攪乱するというもので、更に幸村はこの戦法を効果的にするために、手飼いの忍者達を敵陣に紛れ込ませて『○○殿裏切り』等と叫ばせて敵陣の一層の乱れを誘ったという。これも少人数で大軍に当たるための幸村一流の工夫である。

▼関ヶ原の西軍敗戦により父・昌幸と紀州九度山に流された幸村は「真田紐」を考案し作らせ、それを全国に売りに行くという口実で諸方の情報を得ていた。やがて父も病死し気落ちしていたところへ大坂の陣が勃発する。この戦いにおいて大坂方に加担した幸村は「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、徳川方をさんざんに悩ませて勇名を馳せた。

▼しかし、和睦に応じた大坂方を見事に欺いた家康は城の堀を全て埋めてしまい、裸城にしてから再度大坂方へ戦を仕掛けた。幸村は何度も戦術を上申するが聞き届けてもらえず、悲壮な覚悟のもとに徳川方に玉砕戦を挑む。得意の影武者攪乱戦法で家康の本陣に突撃し、家康を3里/12kmも後退させたのである。

▼しかし、これが彼の限界で精根尽き果て、敵をさんざんに痛めつけた幸村も人間である。体中の力を使い果たして安居天神にたどり着くが、遂に越前松平家の西尾仁左衛門という侍にその首を取られた。

戦国の戦法:水攻め/干し殺し

▼水攻め戦法は歴史上名高い対毛利家の備中高松城攻めや、紀州雑賀党掃滅戦の太田城攻めで使われた秀吉の得意戦法である。また、干し殺し戦法は鳥取城・三木城攻めで使われたことで有名であるが、これらの戦法には共通点がある。それは食料の補給路を断つことと、戦意を喪失させることだった。

▼これは秀吉の戦いに一貫して見られる自軍の被害を最小限にして勝つことで、更に敵にも損害を与えずに勝つということであり、従って彼の勝ち戦は全て敵の数倍する人数にて行なわれ、敵の戦意を喪失させて得たものである。

▼水攻めを行なうには堤を造るための土木工事など、非常に多くの物資と労力を必要とする。また、天候の具合にも左右される。しかし、秀吉には黒田官兵衛ら優秀なブレーンと何より「強運」があった。高松城攻めも太田城攻めも予定通り敵将降伏という形で決着を見る。

▼後の小田原攻めの際、忍城攻めを任された石田三成がこの戦法を真似て失敗し、諸将の物笑いの種にされたという。やはり、誰にでもできる戦法ではない。干し殺しを行なうにはまず敵城の完全包囲が出来るだけの人数と現地の食料物資を買い占めてしまう金が必要である。

▼秀吉はこの点でも抜かりはなかった。鳥取城攻めの時は時価の10倍の値で米を買い占めたため、なんと城内からも秘かに売りに来る始末であったという。更に海上をいち早く封鎖したため、精強なる毛利水軍といえどもそれを突破して食料を城内に運ぶことが出来なかった。このあたりはさすが秀吉といえよう。


地名

▼地名にはその土地の歴史・文化・伝統・自然などあらゆるものが秘められていると言われているが、もちろんその通りで自分の住む土地の名には誰でも愛着を持っているはずだ。

▼その地名が消滅し、突然耳慣れない呼び名がこれからの新しい名だと言われても、抵抗を感じる人が多いのは当然といえば当然だ。しかし、そんな地名も生きものであり古来、生まれ消えることを繰り返してきた。

▼愛知県江南市も合併の話が持ち上がったことがあったが、子供達に意見を聞いてみると。「江南」の名が消えるのが嫌だから反対という声が意外に多かった。

▼しかし、そもそも江南という地名は1954年の町村合併で生まれた地名だ。江には大河の意味があって、江南は木曽川の南という意味の地名だ。という訳で命名後、50年を経ってしっかり地元に定着している。

▼北九州市/1963年市制や東大阪市/1967年市制だって、考えてみれば安直な決め方なのだが、そんな名前でも今では違和感がない。

▼愛知県に豊田市という名前の市がある。この街は日本人よりも外国人に有名だと聞く。そんな豊田市は1959年に挙母市から市名変更してできた市だ。

▼現在なら『由緒ある地名を地元の企業名に変更するなんて』と猛反発を受けること間違いないのだが、半世紀も経てば豊田市の元々の地名である挙母という知名を言っても、地元の人でも読めない人が多いと聞く。

▼今、いろいろ不評の新地名も年月を経ると親しみを持たれ、定着してくるだろう。もちろん、新地名はその土地の風土に合う名にして欲しいし、ひらがなだと親しみやすいとか、○○の西にあるからとか安易な付け方だけは避けて欲しい。




□の中の文字を埋めよ[難易度★★]
1:□□諾々‥自分の意見を言わず、人の意見に従って言いなりになること。
2:□□同音‥多くの人の意見が一致すること。
3:意気□□‥元気一杯で気持ちが奮い立っている様子

▼今では高級品の扱いの鰻も、江戸の昔はその辺の川でいくらでも捕れた。 江戸中期頃までは鰻は下賎な食べ物とされ、人足などの肉体労働者達が、精が付くと言って口にする程度で、一般的に食べられることはあまりなかった。 概して、当時は脂っこい物は下賎な食べ物として嫌われており、マグロのトロも捨てられていたくらいなのだ。

▼元禄期には既に労働者向けに屋台の鰻屋なども登場していたようだが、これは鰻をそのままぶつ切りにして串に刺して焼いたものに、味噌やたまり醤油をつけて食べるもので、お世辞にも上品な食べ物とは言えなかった。 ところが、上方で裂いてから串に刺しタレをつけて焼く、いわゆる「蒲焼き」という調理法が発明されると『思っていたより旨い』ということで鰻は急速に広まった。

▼それまでは庶民の中でも割りと下級に属する人達の食べ物として屋台で売られていたものが、たちまちいくつもの高級専門店ができ、値段も鰻登りに上がって、大工の日給に相当するほどの物まで出てきた。

▼蒲焼きの作り方は上方と江戸とでは少し違う。 上方の蒲焼きは鰻を腹開きにして串を刺しタレを付けて焼くのだが、江戸では背開きにし、一度白焼きにしてから蒸して、最後にタレを付けて焼く。 背開きと腹開きでは何が違うのか、全然判らないが、白焼きにして蒸すという行程は鰻の脂っぽさを軽減させるためのものではないかという気がする。

▼鰻丼や鰻重は鰻の保温のために生まれた。日本橋堺町の芝居小屋の経営者大久保今助はやたらと鰻好きで、いつも鰻を届けてもらって食べていたが、どうしても運んでくるうちに冷めてしまう。それで、ご飯の間に鰻を挟んで持ってきてもらったのが始まりといわれている。 最初は熱くした「おから」に挟んで保温してたようだが、どう考えても、ご飯の方がいいに決まっているから自然にそうなった。

▼やがて店でも丼のご飯に鰻を挟んだものが「まむし丼」として売られるようになり、店で出すならご飯の上に鰻が乗ってる方が見栄えがいいということで、今の鰻丼の形になった。おまけに中と上と2重に鰻が入ってるものまで登場し、値段は更に跳ね上がっていった。

▼鰻といえば、土用の丑の日だが、これは一説によると鰻屋の主人が平賀源内に『夏の暑い盛りには売り上げがガタ落ちするが、何か良い案はないか』と相談したところ「本日土用丑の日」という張り紙を店先に貼っておけと言われたのでその通りにしたところ千客万来になったとか。 証拠の資料が発見されないので、伝説のままになっているが、奇才平賀源内にふさわしい逸話だといえる。 でも、ほんとうにおいしい鰻は秋のようだが。

答え‥1:唯々諾々 2:異口同音 3:意気軒高ココをスクロールすると答えが浮き出る


木戸孝允人物考8

▼明治元年に木戸孝允が版籍奉還と共に最も気に掛けていたのが朝鮮問題だった。西洋列強のアジアでの植民地戦略に危機意識を募らせて志士活動に入った者としては当然の懸念であった。 木戸が最初に問題にしたのは竹島で、竹島開拓については興膳昌蔵という人が吉田松陰に勧め、松陰が「幕府の許可を得て開拓するべきだ」と桂小五郎に手紙で伝えた。

▼イギリスやロシアが一時、対馬の占拠を計画していたほどだから、長州の地理的近さもあって松陰は外国による竹島の占拠を怖れたのだろう。この竹島問題について小五郎は当時、幕府講武所の教授だった村田蔵六に相談している。そんな訳で竹島開拓については松陰の影響もあって安政年間から木戸の頭に残っていた問題だった。

▼もちろん、その先には朝鮮半島があったのだから西欧列強による侵略を懸念したのは木戸ならずとも当時の日本人には自然なことであった。 理想は朝鮮と協力して外夷を退けることだっただろう。そこで日本は政権が天皇に戻ったことを知らせ、今後も友好を深めたい旨の手紙を送ったのだが、朝鮮の大院君政府は日本の新政府を認めず、返事もよこさなかった。

▼そこで朝鮮は非礼であるという怒りの声があがり、征韓論に発展していく。木戸も征韓を主張するのだが、すぐに討てと言っている訳ではなかった。まず使節を送って説得するべきで、それでも態度を変えなければ兵を送るのだという。そして釜山港を開かせるが、利益のためではない。むしろ損になるけれど、釜山を抑えれば日本海航路は安全に保てるというのだ。

▼木戸もロシアあたりを相当に警戒していたようだ。朝鮮では日本のような維新革命は起らなかった。それは地理的、歴史的な背景が違うのだから、そのことで国の優劣を論じてもしかたがない。木戸の征韓論は一時的なものに過ぎなかった。国内情勢の慌しさもあって、朝鮮問題への関心は徐々に薄れていった。

▼米欧視察から帰国後は180度変わって反対の立場を取るようになる。西欧との圧倒的な力の差を見せつけられて、朝鮮どころではなくなってしまった。まずは国内体制をしっかり固めて、国力を養う必要性を痛感するのである。ところが、今度は留守政府の征韓論である。板垣退助や江藤新平らの積極論とは違って西郷隆盛はかつての木戸と同様にまず使節を派遣することが先だと語っている。

▼この時の政治情勢は単なる征韓論だけでなく、他にも様々な問題が絡み合っていた。 木戸、西郷、あるいは他の者の征韓論にせよ、その後の歴史を知っている我々が、現代人の視点でこれを批判することにたいして意義があるとは思えない。むしろそれが起った時代背景や内外の情勢を調べ、必然的事象と偶然的事象を見極め、それらが時を経ていかに絡み合い、影響しあったかを研究、考察して、今後の教訓とすることがより重要ではないだろうか。


ベートーヴェン

▼ゲーテの話によると、ある日彼がベートーヴェンと散歩していると、皇太子の馬車が偶然通ったので、彼や他の通行人達が立ち止まって頭を下げていると、ベートーヴェンだけが帽子も脱がず平然とガニ股で歩き続けていたという。

▼ゲーテが追いかけて非礼を咎めると、ベ−トーヴェンは軽く肩をすくめ『皇太子は世界に何人もいるが、ベートーヴェンはただ1人だ』と言ったので、ゲーテは絶句したという。

▼また、フランス革命大好き人間のベートーヴェンは革命後、平民出身のナポレオンがヨーロッパの王政諸国を次々と打ち負かしている事に驚喜し、彼の為に交響曲「英雄」を作曲したのだが、フランスに送る段になって「ナポレオン、自ら皇帝宣言」の号外が飛び込んできだ。

▼ゆでダコになったベートーヴェンは『クソったれ!ヤツもただ権力にしがみつく俗物に過ぎなかった」と吠え、怒号と共に表紙にあるボナパルトへ捧ぐというメッセージをグッチャグチャにした。そのボロボロになった楽譜の表紙は今でも残っていて、今見てもブチ切れぶりがよく判る。

▼また、恋愛に関してだが、彼とゴッホは実によく似ている。惚れた相手への怒濤の様な愛の押し付けと、相手が社交辞令で言葉を交わしてくれたのを、全て自分に気があると決めつけてしまう才能だ。多くの被害者を出したあげく、失恋大魔王の2人は結局最後まで独身だった。

▼最後に更に親しみやすくなる話をしよう。彼は決して天才ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことだ。

▼その証拠にモーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がないし、ベートーヴェンのようにひとつのメロディーを書くだけで8度も書き直したりはしない。有名な「運命」の冒頭もさんざん試行錯誤した挙げ句のモノなんだ。

▼不器用な彼は作曲中は他の一切の用事が出来ず、ピアノの上にはカビの生えたパンが皿に乗っており、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していた。こうして雇ったメイドは片っ端から逃げ出した。

▼そんな環境で「エリーゼのために」や「月光」など珠玉の傑作が生まれるんだから面白い。神経質な彼は引越し魔で、ウィーンに滞在した35年間のうちに79回も転居したという記録が残っている。

▼他にも、大傑作の第9の直後に「なくした小銭への怒り」という珍曲を作ってるのも人間ぽくていい。彼は31歳の秋、聴覚を失った絶望から自殺を決意して遺書を書いた。

▼思いとどまらせたのは音楽。どんどん頭の中にメロディーが浮かんでくる以上、芸術に対する使命感から生き続ける覚悟を決めたんだ。享年56歳。臨終の言葉『諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった』が何とも痛々しい。
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by tomhana0906 | 2009-12-14 06:55
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