★積もりに積もってアーカイブ。言うなれば過去の記録の保存庫です。
by tomhana0906
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[PROFILE]
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脳梗塞を発症してはや10年目を迎えた。肉体的には負い目のようなものも確かにあるが、気分的はそうでもない。耳の奥から『御破算に願いましては』という甘い囁きは聞こえてこない。この病気になって、誰かに追われるかのように無我夢中にやってきたこれまでの人生を今一度、見直すいい機会を与えてくれた事だけは確かだ。どんな人でも人生の終わりを迎えなければならない。私もその時が来るまで悔いのない人生を送りいたいと願うばかりだ。
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[人生の御負け]
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◎総ブログ:全5632話
《2012.2.29現在》
NEWS! 最近、全面的に見直して、完全ではないものの一応目次として耐えうるものにしたつもりです。ぜひ一度ご覧ください。
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[CONTENTS:人生の足跡]
━━━━━━━━━━━━━━━
◎[リハビリ日記]人に言えない脳梗塞の後遺症と戦う日々の話など‥
◎[名古屋巡礼記]ひとりで巡り歩いて来た篤き信仰の記録を集大成‥
◎[名古屋見聞録]名古屋人も名古屋人でない方も必見の話題が満載‥
◎[達人への道]『人生は達観だ』と言い続けて久しい私の放浪記‥
◎[GOB備忘録]時代の先駆者だったグッド・オールド・ボーイズ‥
◎[私だけのCD]珠玉の名盤『BIN'S CD』1枚1枚にまつわる秘話‥
◎[埋もれた名盤]忘れ去られた名曲を私の篤い思いで蘇らせたらな‥
◎[私の読書感想]人生の峠を越えてきた男の見方と読方を紐解くと‥
◎[心の曼陀羅]歴史の中での名もなき人々が織り成す心の曼陀羅‥
◎[MANHOLE]ある日、立ち止まった私の足元で奴等が微笑んでいた‥
◎[弔いのカタチ]棺桶に片足を突っ込んだことのある私だからこそ‥
◎[猫のアルバム]神の思し召しがあったからこそ出合えた円らな瞳‥
◎[遠い日の記憶]貴方は子供の頃のことを今でも覚えていますか?‥
◎[歴史のオマケ]長年鍛えた心眼で見極めた秘宝の数々をご開帳だ‥
◎[フォトレター]日々の写真に思いを託して朝も早よから散歩です‥
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[CONTENTS:人生は勉強]
━━━━━━━━━━━━━━━
◎[日々の雑記帳]思い付くまま気の向くまま巷の影から探してきた‥
◎[知らない物語]世の中から忘れ去られてしまった日陰に咲いた花‥
◎[時代は江戸時代]テレビの時代劇では判っていても、真実は何も知らない‥
◎[補習:江戸時代]江戸時代を再発見するための勉強だと思ってくれ‥
江戸の┃歴史┃秘話┃言葉┃
◎[甦る激動の幕末]私が生まれた年の100年前はペリーが浦賀に現われた‥
幕末の┃実像┃攘夷┃写真┃
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[CONTENTS:人生はオマケ]
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◎[ポートレート怪物編]忘却の彼方からこつ然と甦ってきた怪物の正体は?
○歴史上の人物は ココ
◎[クイズ日本人]狭い日本に生まれながら出身地によってこの違いは何?
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[更新記録]
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○2012.04:104話new
○2012.03:115話
○2011.02:111話
○2012.01:113話
○2011.12:97話
○2011.11:74話
○2011.10:77話
○2011.09:97話
○2011.08:110話
○2011.07:102話
○2011.06:93話
○2011.05:92話
○2011.04:90話
○2011.03:98話
○2011.02:96話
○2011.01:96話
◎2010.07-12:565話
◎2010.01-06:561話
◎2009.07-12:488話
◎2009.01-06:363話
◎2008.07-12:473話
◎2008.01-06:413話
◎1007.07-12:287話
◎1007.01-06:305話
◎2006.01-12:460話
◎2005.01-12:167話
◎2004.01-12:77話
◎2003:17話
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脳梗塞を発症してはや10年目を迎えた。肉体的には負い目のようなものも確かにあるが、気分的はそうでもない。耳の奥から『御破算に願いましては』という甘い囁きは聞こえてこない。この病気になって、誰かに追われるかのように無我夢中にやってきたこれまでの人生を今一度、見直すいい機会を与えてくれた事だけは確かだ。どんな人でも人生の終わりを迎えなければならない。私もその時が来るまで悔いのない人生を送りいたいと願うばかりだ。
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◎2010.07-12:565話
◎2010.01-06:561話
◎2009.07-12:488話
◎2009.01-06:363話
◎2008.07-12:473話
◎2008.01-06:413話
◎1007.07-12:287話
◎1007.01-06:305話
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日々の雑記帳:441
人類の歴史74:銀の道3
▼カール5世の巨大な領域のうち、ドイツの所領は弟のフェルディナントが、スペインなどそれ以外の領土は子のフェリペが受けついだ。最大のライバルであるフランスは内乱にみまわれており、スペインは圧倒的に有利な立場にあったが、ネーデルラント反乱の泥沼に足をすくわれたカタチとなった。
▼この反乱はイングランドのエリザベス1世が支援を行なっていた。フェリペはこれを征服するため、1588年に大艦隊を派遣した。計画ではネーデルラント派遣軍を船に乗せてイングランドに上陸する手はずだったが、合流できないままカレーでイングランド艦隊の夜襲にあって敗退した。
▼17世紀になると、繁栄を謳歌してきた世界経済は一転、停滞の時代を迎えることになる。その原因の1つは気候の悪化にあった。14~15世紀頃からみられた気温低下は17世紀に入ると顕著になり、多くの地域で過去2000年間の最低を記録した。これにともない、人口・農業・商工業の停滞にみまわれたのである。
▼もう1つの原因は銀の供給減少であった。前世紀は世界に銀が溢れ、経済が活気づいた時代だったが、これは「銀の供給過剰=価値低下」という状態でもあった。一方、銀の鉱山では掘り進むにつれコストが上昇し、採算がとれなくなって生産が減少するのは当然だった。
▼スペイン領アメリカでは銀産出量そのものの減少に加えて、スペイン本国への輸送路も脅かされていた。1639年にスペイン艦隊がオランダに撃破されて以来、オランダやイングランドの海賊がカリブ海で港や船団を襲うようになったのである。植民地当局は実に銀の1/3を防衛費に回さねばならなかった。
▼アメリカ植民地にとって、銀輸出の衰退は確かに痛手だった。ただ、長い目で見れば鉱山業に依存していた植民地経済が健全化する契機になったともいえる。例えば、スペイン本国から輸入していた衣料などの工業製品が17世紀中頃から植民地の各地で生産されるようになった。
▼先住民が激減した代わりに現地生まれの白人や混血の人口は順調に増え、植民地内の市場も育ってきた。もう1つの銀産地である日本は17世紀初頭に統一を成し遂げた徳川政権のもと、中国や東南アジア、ヨーロッパ諸国と活発に交易を行なっていた。
▼しかし、銀の生産が落ち込むと幕府は厳重な管理貿易に移行し、通貨流出を阻止した。同時に綿花・綿織物、生糸・絹織物など、それまでの輸入品が国産化されるようになった。金・銀・銅とも国内用には充分な量があり、輸入の必要はなかった。以後、日本は海外交易に依存せずに200年にわたって持続的成長を遂げた。
▼銀の供給源であった中南米と日本とが自立し始めたことで、世界経済は通貨の減少と交易の収縮にみまわれることになった。ただし、その影響の現れ方は地域によって異なった。オスマン帝国やムガル帝国では事態はそれほど深刻ではなく、むしろ成長すらみられた。
▼広大な帝国自体が1つの経済圏をなしていたからである。農産物や工業製品はもともと国内の市場向けに生産されており、対外貿易はおいしいビジネスではあるが、2義的なものにすぎなかった。ただし、帝国のうちでも人口過剰で、輸入銀に依存していた中国は例外だった。
▼気候変動と不況の直撃を受け、農民反乱の中で明が倒れたのである。しかし、女真族の清王朝が中国とモンゴルをあわせて帝国をより大規模に再建すると、北方の脅威が消滅したこともあって外からの銀供給はさほど必要なくなり、17世紀末からは安定期を迎えた。
▼一方、単一の経済圏が形成されなかった地域では、その中の諸勢力が不況のもとで小さくなったパイを奪いあうかたちとなった。小国が分立する東南アジアではいずれの国もその繁栄を国際交易の中継地という条件に負っていたから、日本人の撤退や中国の動乱による影響は大きかった。
▼香辛料など市場の狭い贅沢品はたちまち供給過剰に陥り、その輸出に頼っていた港市国の多くが没落した。大陸部で芽が出かけていた生糸産業も豊富な労働力に支えられた中国・インドとの競争に敗れた。ヴェトナム、ミャンマーは自給的な農業国へ転落していった。
秋田県2
▼秋田弁も畿内古語と古音を今日に伝えている。「橋の下で河童コがかっぱコ産/もた。親コもかっぱコ、その子もかっぱコ、親かっぱコ、子かっぱコだ」と、コぱかり続いたのでは何がなんだか判らなくなるが、この名詞に子をっける慣行も平安時代の標準語の生き残りである。
▼今の日本語は五十音で、第1行が全部母音、第2行以下は全部母音・子音の結合である。その結合の時、サ行を例にとると、サ、シ、ス、セ、ソの子音は一種類しかない。ところが『古事記』では88音、『万葉集』では87音ある。これは普通のサ行の他に服のようなスァ、スィ、スウというのがもう一行あった。
▼要するに全部ではないが2行になる音があり、2倍に近い発音の習慣があったのである。今、私達が使っている五十音ではワ行のワの発音だけは完全だが、井/ウィはなくなってア行のイを発音している。しかし、東北地方ては今でもはっきりウィと言っている。
▼東京の人は東北の人が寿司のことをススと言うと思っているが、実はsiciのスィという発音を聞きちがえているのである。秋田弁には88の古代発音のうち67~8音が残っている。国定教科書によって五十音を押しつけた明治教有以来、これもどんどん失われているが、田舎のお婆さんなどは正確に使い別けており、特に民謡を歌わせてみるとよく判る。
▼会話は次第に標準語化しても東北人が歌う東北の民謡には古い発音が保存されている。これは奈良時代に始まった開拓が平安初期まで続けられ、近畿地方から多くの移住者が送られたが、その後ぷっつり途絶えて地域的に孤立し、封鎖されたまま明治維新を迎えたことの生きた証人である。
▼九州にも古代語が残っているが、語彙が古代的なだけで発音は標準語化している。従って東北弁は言語学の宝庫であり、考えようによっては1000年前の標準語なのてあるから東北人も方言コンプレックスから脱出してもらいたいものである。金田一博士の研究によっても明らかなように、東北弁にはアイヌ語との混合は一語もない。
大阪府2
▼太阪の人は商売に対して真剣に立ち向かうが、むしろエゴイズムの要素は少ない。カバン1つ買いに入っても、その店に希望する商品がない時、どこへ行けば売っているはずだと商売がたきを紹介してくれるのは大阪だけである。古い商慣習の中に相互扶助が発達し、商取引の信用や恩義は東京よりはるかに厚い。
▼これは依るぺき権力がなく、あるいは彼らが権力を認めず、商人として自立するための必要から起こった道義ではないだろうか。その上、まことに失礼ながら、大阪人は商売にはガメツイが人間としてどこか抜けている、という“美点”がある。これは実に大きな救いである。合理主義の中に見られる不合理性とでもいうぺきものだろう。
▼“食い倒れ”といわれながら、本当はえらく食事などを倹約しているのに、まったく無駄なことに同情して金を出したり、見栄を張ったりする。涙もろいのも特色である。躁欝質といってしまえばそれまでだが、基本的にヒューマニストだからてはないかと考えたい。
▼江戸時代、酒と流行は上方から江戸へ流れてきた。明治以後、はやり風邪と米騒動も上方から来た。現代では全てのものが東京から関西へ流れるように思っているが、今でも繊維や各種の工業製品から漫才まで、上方から東京へ向かって流れてくるものは多い。薬品や金属品など、大阪に中心のある産業も少なくない。
▼東京=大阪間は新斡線で3時間、ジェット機なら45分である。大阪も東京も同じ街になってしまいそうだが、なお大阪人の心には東京コンプレックスが残っている。東京には中央省庁があり、人口も大阪の2倍ほどある。しかし、それだけではコンプレックスをもつ理由にならない。
▼東京こそ寄せ集めの植民地、田舎者の新興地と思っているが、大阪人は勝手に東京を憧れの中心地と思っているようである。これは明治政府以来の権威主義の政治が作り上げた幻影にすぎない。むしろ大阪こそ民衆の作った反権威主義の、民主主義にふさわしい大都会なのである。
▼江戸時代以来、大阪人のド根性はこの反権威主義の上に築かれてきた。江戸の商人は権力を利用し、権力の陰に隠れた御用商人的なものが多かったが、大阪商人はまさに裸一貫、自分の努力と運だけで栄えた。そこで自然に身についたのが打算的なガメツサ、暖簾に対する誇り、無茶苦茶とも見える精進である。
▼その目まぐるしい努力の中で彼らが自己開放をする知恵は漫才や上方落語に見られるような笑いと、食い倒れといわれる味覚の享受であった。こうした健康な生活態度は大阪人の美点だろう。今や大阪の商習慣や生活様式は大きく変わりつつある。かっての船場、島ノ内は姿を消し、前垂れをしている人はいなくなった。
▼商業もコンピュータ化し、働く人々もネクタイをしめたサラリーマンである。しかし、それでもなお大阪伝統のド根性は存在している。最近は純粋の大阪弁をめったに聞けなくなった。上方劇を見ても、船場から移った芦屋夫人の会話にもそれはない。老人か落語家の一部に残っているだけである。
▼ところが、大阪の商社では大阪弁の講習会が開かれている。これは実に珍しいことで、田舎出の新入杜員を集めて、商業語として必要欠くべからざる大阪弁を受講させるのである。大阪弁はしっかりした意志を潜在させながら、相手を刺激したり傷つけたりしない表現法を持ち、流れるような滑脱な発音が特徴である。
▼方言の保存がいいとか悪いとかではなく、大阪弁が消え去らぬかぎり大阪のド根性が生き続けることを期待したいものである。
川俣軍司
▼川俣は昭和27年、5人兄弟の4番目として生を受けた。ちょうど彼の生まれた頃、一家の経済状態は最悪で、母乳ではなく重湯で育てられた。知能指数は後の調べによると87。学校の成績は5段階評価の「2」がほとんどで、無口で気が弱く、いつもにたにた薄笑いを浮かべている少年であった。
▼教師の評価は「家族・本人の性格がかなり変わっており、交友関係が狭い。注意力散漫、情緒不安定。怒りっぽい」というものである。当時の社会は既に高校進学率は90%を越えていたが、本人の希望もあって集団就職で県外に出ることになった。
▼寿司職人の見習いとなるが、最初に勤めた店では少年院あがりの同僚とうまくいかず退職。次ぎの店では酒を飲んで客にからみ、おまけに刺青を入れてちらつかせるような真似をしたため解雇となった。その後は寿司屋を転々とするが、どこも長続きしなかった。
▼19歳から20歳にかけて、酒に酔っては立て続けに恐喝や暴行傷害事件を起こし、2年間の服役。その2年後にも懲りずに暴行と恐喝で懲役10カ月をくらった。出所してきた時、川俣は25歳になっていた。彼は郷里に帰って家業のしじみ掻きを手伝い始めるが、それで金回りが良くなり始めると地元の暴力団とつるみ、覚醒剤を使用し始めた。
▼昭和53年には馴染みのホステスに亭主がいることを知って激怒し、誘拐して包丁で傷つけたため、懲役1年となっている。更に昭和55年に飲酒運転で人身事故を起こして懲役7カ月。出所後、東京近辺の寿司屋に就職するが、態度の悪さでどこもすぐに解雇になった。
▼川俣は食うにも事かくようになったが、覚醒剤もやめられない。幻聴や幻覚は日増しにひどくなる。最後の頼みの綱と思って受けた面接も不採用であった。6月17日、川俣は手に柳刃包丁を持ち、下半身裸の格好で商店街へ飛び出した。
▼彼は3歳の娘と1歳の赤ん坊を連れた主婦にいきあたり、その親子3人を全て刺し殺した。3歳の長女は腹から腸が飛び出し、長く苦しみながら死んだ。更に彼は走り、3人の女性の腹部や胸などを刺した。そのうち1人は死亡した。
▼川俣は次に通行人の女性を人質に中華料理店に立て籠り、7時間ものあいだ篭城する。その間、10数人を名指しにして「恨みがある、つれてこい」と怒号した。店員に変装した刑事達に遂に引きずり出され、逮捕された。その瞬間の猿ぐつわをはめられ、手錠をかけられた下着一枚の姿の写真を見ると、その目がまだ憤怒に燃えていることがありありと判る。
▼なお、下着は刑事が急遽、商店街から買ってきたものであり、それまでは裸のままであった。彼は事件前、兄にこんな手紙を書いて送りつけている。「俺は毎日、電波とテープと映像にひっつかれた。泣きたくもないのに電波でメソメソさせられた。笑いたくもないのにニヤニヤさせられた。
▼考えたくもないことをテープで考えさせられた。俺がひっつかれているのを知りながら、まさか親兄弟まで一緒になってコソコソ言うとは思わなかった。とにかく5軒目でまともに働けない状態であったならケジメをつける。それより方法がない」
▼逮捕後、川俣の尿からは明らかな覚醒剤反応が出た。彼は取り調べの際もいきがって強気だったが、犯行時も女子供にしか刃物を向けられなかった男は刑事に一喝されると青くなって下を向いた。裁判中も「電波がひどくて」「殺せという声がいつも聞こえた」と証言。覚醒剤酩酊による心神耗弱が認められ、無期懲役となった。
愛宕山の聖
▼京都の聖地、愛宕山に長いこと修行を続けている聖がいた。もう何年もひたすら修行して、住まいを出ることがなかった。聖の住まいの西に猟師が住んでいて、この聖を尊敬し、たびたび訪れて食べ物など差し入れたりしていた。
▼ある時、猟師がしばらくぶりに食料を籠に詰め込んで訪ねていくと、聖は喜んで「久しく来ないので、どうしているかと気がかりだった」などと話したが、そのうち猟師の傍に寄って、こんなことを囁いた。
▼「実はな、最近たいそう尊いことが起こるのだ。何年もずっと一心不乱に法華経を読誦して修行した結果なのだろうか、このところ毎晩、普賢菩薩が象に乗って来られるのが見えるのだよ。だから、お前さんも今夜はここに泊まって一緒に拝むがよい」それで猟師はその夜は泊まっていくことになった。
▼さて、聖は召使の子供を1人使っていたが、その子供に猟師は尋ねた。「聖のおっしゃるのはどういうことかな。お前もその仏を拝んだことがあるのか」「うん、5~6回見たことがあるよ」そう子供が言うので、猟師は『じゃあ、俺にも見えるかも知れない』と思って、聖の後ろで眠らずに待っていた。
▼陰暦9月20日のことで夜は長い。今か今かと待つうち、夜半過ぎかという頃、東の山の嶺より月が登るかのように見えて、嶺をすさまじく風が吹き渡る中、室内は光がさし込んだように明るくなった。見ると、普賢菩薩が白象に乗ってしずしずとやって来て、聖の住まいの前にお立ちになる。
▼聖は感動の涙を流しながら拝み伏して「これこれ、お前さんも拝んでおるか」と言うので、猟師は「どうして拝まないことがありましょうか。私も拝んでおりますよ。はいはい、まことに尊いことで」と応えたが、心の中では『聖は何年も法華経を読誦して修行されたのだから、その目に仏が見えるということはあるかも知れない。しかし、経の向き方の上下も判らない召使の子供や俺に見えるというのは、どうも納得できない』と考えていた。
▼そして思った。『よし、確かめてみよう。真実を求めるのだから罰当たりなことではないぞ』猟師はとがり矢を弓につがえて強く引き、拝み伏している聖をさし越してヒュッと矢を放った。矢が仏の胸に当たったと見えると同時に火を消すように光は失せて、何者かが逃げ去っていく音が闇の山谷に轟いた。
▼聖は「わあ、なんてことをしてくれるんだ」と叫んで、泣きわめくばかりであったが、猟師が言うには「聖の目に見えるのはもっともとして、私のような罪深い者の目にも見えるので射てみたのです。ほんとの仏ならまさか矢が当たることはないでしょう。あれは妖怪ですよ」
▼夜が明けて、血の跡をたどっていくと100mほど先の谷底に大きな狸が胸をとがり矢で射抜かれて死んでいるのが見つかった。聖とはいっても無智だったので、このように化かされたのである。一方、ただの猟師であっても思慮というものをもっていたので、狸を射殺して正体を暴くことができたのである。
▼カール5世の巨大な領域のうち、ドイツの所領は弟のフェルディナントが、スペインなどそれ以外の領土は子のフェリペが受けついだ。最大のライバルであるフランスは内乱にみまわれており、スペインは圧倒的に有利な立場にあったが、ネーデルラント反乱の泥沼に足をすくわれたカタチとなった。
▼この反乱はイングランドのエリザベス1世が支援を行なっていた。フェリペはこれを征服するため、1588年に大艦隊を派遣した。計画ではネーデルラント派遣軍を船に乗せてイングランドに上陸する手はずだったが、合流できないままカレーでイングランド艦隊の夜襲にあって敗退した。
▼17世紀になると、繁栄を謳歌してきた世界経済は一転、停滞の時代を迎えることになる。その原因の1つは気候の悪化にあった。14~15世紀頃からみられた気温低下は17世紀に入ると顕著になり、多くの地域で過去2000年間の最低を記録した。これにともない、人口・農業・商工業の停滞にみまわれたのである。
▼もう1つの原因は銀の供給減少であった。前世紀は世界に銀が溢れ、経済が活気づいた時代だったが、これは「銀の供給過剰=価値低下」という状態でもあった。一方、銀の鉱山では掘り進むにつれコストが上昇し、採算がとれなくなって生産が減少するのは当然だった。
▼スペイン領アメリカでは銀産出量そのものの減少に加えて、スペイン本国への輸送路も脅かされていた。1639年にスペイン艦隊がオランダに撃破されて以来、オランダやイングランドの海賊がカリブ海で港や船団を襲うようになったのである。植民地当局は実に銀の1/3を防衛費に回さねばならなかった。
▼アメリカ植民地にとって、銀輸出の衰退は確かに痛手だった。ただ、長い目で見れば鉱山業に依存していた植民地経済が健全化する契機になったともいえる。例えば、スペイン本国から輸入していた衣料などの工業製品が17世紀中頃から植民地の各地で生産されるようになった。
▼先住民が激減した代わりに現地生まれの白人や混血の人口は順調に増え、植民地内の市場も育ってきた。もう1つの銀産地である日本は17世紀初頭に統一を成し遂げた徳川政権のもと、中国や東南アジア、ヨーロッパ諸国と活発に交易を行なっていた。
▼しかし、銀の生産が落ち込むと幕府は厳重な管理貿易に移行し、通貨流出を阻止した。同時に綿花・綿織物、生糸・絹織物など、それまでの輸入品が国産化されるようになった。金・銀・銅とも国内用には充分な量があり、輸入の必要はなかった。以後、日本は海外交易に依存せずに200年にわたって持続的成長を遂げた。
▼銀の供給源であった中南米と日本とが自立し始めたことで、世界経済は通貨の減少と交易の収縮にみまわれることになった。ただし、その影響の現れ方は地域によって異なった。オスマン帝国やムガル帝国では事態はそれほど深刻ではなく、むしろ成長すらみられた。
▼広大な帝国自体が1つの経済圏をなしていたからである。農産物や工業製品はもともと国内の市場向けに生産されており、対外貿易はおいしいビジネスではあるが、2義的なものにすぎなかった。ただし、帝国のうちでも人口過剰で、輸入銀に依存していた中国は例外だった。
▼気候変動と不況の直撃を受け、農民反乱の中で明が倒れたのである。しかし、女真族の清王朝が中国とモンゴルをあわせて帝国をより大規模に再建すると、北方の脅威が消滅したこともあって外からの銀供給はさほど必要なくなり、17世紀末からは安定期を迎えた。
▼一方、単一の経済圏が形成されなかった地域では、その中の諸勢力が不況のもとで小さくなったパイを奪いあうかたちとなった。小国が分立する東南アジアではいずれの国もその繁栄を国際交易の中継地という条件に負っていたから、日本人の撤退や中国の動乱による影響は大きかった。
▼香辛料など市場の狭い贅沢品はたちまち供給過剰に陥り、その輸出に頼っていた港市国の多くが没落した。大陸部で芽が出かけていた生糸産業も豊富な労働力に支えられた中国・インドとの競争に敗れた。ヴェトナム、ミャンマーは自給的な農業国へ転落していった。
秋田県2
▼秋田弁も畿内古語と古音を今日に伝えている。「橋の下で河童コがかっぱコ産/もた。親コもかっぱコ、その子もかっぱコ、親かっぱコ、子かっぱコだ」と、コぱかり続いたのでは何がなんだか判らなくなるが、この名詞に子をっける慣行も平安時代の標準語の生き残りである。
▼今の日本語は五十音で、第1行が全部母音、第2行以下は全部母音・子音の結合である。その結合の時、サ行を例にとると、サ、シ、ス、セ、ソの子音は一種類しかない。ところが『古事記』では88音、『万葉集』では87音ある。これは普通のサ行の他に服のようなスァ、スィ、スウというのがもう一行あった。
▼要するに全部ではないが2行になる音があり、2倍に近い発音の習慣があったのである。今、私達が使っている五十音ではワ行のワの発音だけは完全だが、井/ウィはなくなってア行のイを発音している。しかし、東北地方ては今でもはっきりウィと言っている。
▼東京の人は東北の人が寿司のことをススと言うと思っているが、実はsiciのスィという発音を聞きちがえているのである。秋田弁には88の古代発音のうち67~8音が残っている。国定教科書によって五十音を押しつけた明治教有以来、これもどんどん失われているが、田舎のお婆さんなどは正確に使い別けており、特に民謡を歌わせてみるとよく判る。
▼会話は次第に標準語化しても東北人が歌う東北の民謡には古い発音が保存されている。これは奈良時代に始まった開拓が平安初期まで続けられ、近畿地方から多くの移住者が送られたが、その後ぷっつり途絶えて地域的に孤立し、封鎖されたまま明治維新を迎えたことの生きた証人である。
▼九州にも古代語が残っているが、語彙が古代的なだけで発音は標準語化している。従って東北弁は言語学の宝庫であり、考えようによっては1000年前の標準語なのてあるから東北人も方言コンプレックスから脱出してもらいたいものである。金田一博士の研究によっても明らかなように、東北弁にはアイヌ語との混合は一語もない。
大阪府2
▼太阪の人は商売に対して真剣に立ち向かうが、むしろエゴイズムの要素は少ない。カバン1つ買いに入っても、その店に希望する商品がない時、どこへ行けば売っているはずだと商売がたきを紹介してくれるのは大阪だけである。古い商慣習の中に相互扶助が発達し、商取引の信用や恩義は東京よりはるかに厚い。
▼これは依るぺき権力がなく、あるいは彼らが権力を認めず、商人として自立するための必要から起こった道義ではないだろうか。その上、まことに失礼ながら、大阪人は商売にはガメツイが人間としてどこか抜けている、という“美点”がある。これは実に大きな救いである。合理主義の中に見られる不合理性とでもいうぺきものだろう。
▼“食い倒れ”といわれながら、本当はえらく食事などを倹約しているのに、まったく無駄なことに同情して金を出したり、見栄を張ったりする。涙もろいのも特色である。躁欝質といってしまえばそれまでだが、基本的にヒューマニストだからてはないかと考えたい。
▼江戸時代、酒と流行は上方から江戸へ流れてきた。明治以後、はやり風邪と米騒動も上方から来た。現代では全てのものが東京から関西へ流れるように思っているが、今でも繊維や各種の工業製品から漫才まで、上方から東京へ向かって流れてくるものは多い。薬品や金属品など、大阪に中心のある産業も少なくない。
▼東京=大阪間は新斡線で3時間、ジェット機なら45分である。大阪も東京も同じ街になってしまいそうだが、なお大阪人の心には東京コンプレックスが残っている。東京には中央省庁があり、人口も大阪の2倍ほどある。しかし、それだけではコンプレックスをもつ理由にならない。
▼東京こそ寄せ集めの植民地、田舎者の新興地と思っているが、大阪人は勝手に東京を憧れの中心地と思っているようである。これは明治政府以来の権威主義の政治が作り上げた幻影にすぎない。むしろ大阪こそ民衆の作った反権威主義の、民主主義にふさわしい大都会なのである。
▼江戸時代以来、大阪人のド根性はこの反権威主義の上に築かれてきた。江戸の商人は権力を利用し、権力の陰に隠れた御用商人的なものが多かったが、大阪商人はまさに裸一貫、自分の努力と運だけで栄えた。そこで自然に身についたのが打算的なガメツサ、暖簾に対する誇り、無茶苦茶とも見える精進である。
▼その目まぐるしい努力の中で彼らが自己開放をする知恵は漫才や上方落語に見られるような笑いと、食い倒れといわれる味覚の享受であった。こうした健康な生活態度は大阪人の美点だろう。今や大阪の商習慣や生活様式は大きく変わりつつある。かっての船場、島ノ内は姿を消し、前垂れをしている人はいなくなった。
▼商業もコンピュータ化し、働く人々もネクタイをしめたサラリーマンである。しかし、それでもなお大阪伝統のド根性は存在している。最近は純粋の大阪弁をめったに聞けなくなった。上方劇を見ても、船場から移った芦屋夫人の会話にもそれはない。老人か落語家の一部に残っているだけである。
▼ところが、大阪の商社では大阪弁の講習会が開かれている。これは実に珍しいことで、田舎出の新入杜員を集めて、商業語として必要欠くべからざる大阪弁を受講させるのである。大阪弁はしっかりした意志を潜在させながら、相手を刺激したり傷つけたりしない表現法を持ち、流れるような滑脱な発音が特徴である。
▼方言の保存がいいとか悪いとかではなく、大阪弁が消え去らぬかぎり大阪のド根性が生き続けることを期待したいものである。
川俣軍司
▼川俣は昭和27年、5人兄弟の4番目として生を受けた。ちょうど彼の生まれた頃、一家の経済状態は最悪で、母乳ではなく重湯で育てられた。知能指数は後の調べによると87。学校の成績は5段階評価の「2」がほとんどで、無口で気が弱く、いつもにたにた薄笑いを浮かべている少年であった。
▼教師の評価は「家族・本人の性格がかなり変わっており、交友関係が狭い。注意力散漫、情緒不安定。怒りっぽい」というものである。当時の社会は既に高校進学率は90%を越えていたが、本人の希望もあって集団就職で県外に出ることになった。
▼寿司職人の見習いとなるが、最初に勤めた店では少年院あがりの同僚とうまくいかず退職。次ぎの店では酒を飲んで客にからみ、おまけに刺青を入れてちらつかせるような真似をしたため解雇となった。その後は寿司屋を転々とするが、どこも長続きしなかった。
▼19歳から20歳にかけて、酒に酔っては立て続けに恐喝や暴行傷害事件を起こし、2年間の服役。その2年後にも懲りずに暴行と恐喝で懲役10カ月をくらった。出所してきた時、川俣は25歳になっていた。彼は郷里に帰って家業のしじみ掻きを手伝い始めるが、それで金回りが良くなり始めると地元の暴力団とつるみ、覚醒剤を使用し始めた。
▼昭和53年には馴染みのホステスに亭主がいることを知って激怒し、誘拐して包丁で傷つけたため、懲役1年となっている。更に昭和55年に飲酒運転で人身事故を起こして懲役7カ月。出所後、東京近辺の寿司屋に就職するが、態度の悪さでどこもすぐに解雇になった。
▼川俣は食うにも事かくようになったが、覚醒剤もやめられない。幻聴や幻覚は日増しにひどくなる。最後の頼みの綱と思って受けた面接も不採用であった。6月17日、川俣は手に柳刃包丁を持ち、下半身裸の格好で商店街へ飛び出した。
▼彼は3歳の娘と1歳の赤ん坊を連れた主婦にいきあたり、その親子3人を全て刺し殺した。3歳の長女は腹から腸が飛び出し、長く苦しみながら死んだ。更に彼は走り、3人の女性の腹部や胸などを刺した。そのうち1人は死亡した。
▼川俣は次に通行人の女性を人質に中華料理店に立て籠り、7時間ものあいだ篭城する。その間、10数人を名指しにして「恨みがある、つれてこい」と怒号した。店員に変装した刑事達に遂に引きずり出され、逮捕された。その瞬間の猿ぐつわをはめられ、手錠をかけられた下着一枚の姿の写真を見ると、その目がまだ憤怒に燃えていることがありありと判る。
▼なお、下着は刑事が急遽、商店街から買ってきたものであり、それまでは裸のままであった。彼は事件前、兄にこんな手紙を書いて送りつけている。「俺は毎日、電波とテープと映像にひっつかれた。泣きたくもないのに電波でメソメソさせられた。笑いたくもないのにニヤニヤさせられた。
▼考えたくもないことをテープで考えさせられた。俺がひっつかれているのを知りながら、まさか親兄弟まで一緒になってコソコソ言うとは思わなかった。とにかく5軒目でまともに働けない状態であったならケジメをつける。それより方法がない」
▼逮捕後、川俣の尿からは明らかな覚醒剤反応が出た。彼は取り調べの際もいきがって強気だったが、犯行時も女子供にしか刃物を向けられなかった男は刑事に一喝されると青くなって下を向いた。裁判中も「電波がひどくて」「殺せという声がいつも聞こえた」と証言。覚醒剤酩酊による心神耗弱が認められ、無期懲役となった。
愛宕山の聖
▼京都の聖地、愛宕山に長いこと修行を続けている聖がいた。もう何年もひたすら修行して、住まいを出ることがなかった。聖の住まいの西に猟師が住んでいて、この聖を尊敬し、たびたび訪れて食べ物など差し入れたりしていた。
▼ある時、猟師がしばらくぶりに食料を籠に詰め込んで訪ねていくと、聖は喜んで「久しく来ないので、どうしているかと気がかりだった」などと話したが、そのうち猟師の傍に寄って、こんなことを囁いた。
▼「実はな、最近たいそう尊いことが起こるのだ。何年もずっと一心不乱に法華経を読誦して修行した結果なのだろうか、このところ毎晩、普賢菩薩が象に乗って来られるのが見えるのだよ。だから、お前さんも今夜はここに泊まって一緒に拝むがよい」それで猟師はその夜は泊まっていくことになった。
▼さて、聖は召使の子供を1人使っていたが、その子供に猟師は尋ねた。「聖のおっしゃるのはどういうことかな。お前もその仏を拝んだことがあるのか」「うん、5~6回見たことがあるよ」そう子供が言うので、猟師は『じゃあ、俺にも見えるかも知れない』と思って、聖の後ろで眠らずに待っていた。
▼陰暦9月20日のことで夜は長い。今か今かと待つうち、夜半過ぎかという頃、東の山の嶺より月が登るかのように見えて、嶺をすさまじく風が吹き渡る中、室内は光がさし込んだように明るくなった。見ると、普賢菩薩が白象に乗ってしずしずとやって来て、聖の住まいの前にお立ちになる。
▼聖は感動の涙を流しながら拝み伏して「これこれ、お前さんも拝んでおるか」と言うので、猟師は「どうして拝まないことがありましょうか。私も拝んでおりますよ。はいはい、まことに尊いことで」と応えたが、心の中では『聖は何年も法華経を読誦して修行されたのだから、その目に仏が見えるということはあるかも知れない。しかし、経の向き方の上下も判らない召使の子供や俺に見えるというのは、どうも納得できない』と考えていた。
▼そして思った。『よし、確かめてみよう。真実を求めるのだから罰当たりなことではないぞ』猟師はとがり矢を弓につがえて強く引き、拝み伏している聖をさし越してヒュッと矢を放った。矢が仏の胸に当たったと見えると同時に火を消すように光は失せて、何者かが逃げ去っていく音が闇の山谷に轟いた。
▼聖は「わあ、なんてことをしてくれるんだ」と叫んで、泣きわめくばかりであったが、猟師が言うには「聖の目に見えるのはもっともとして、私のような罪深い者の目にも見えるので射てみたのです。ほんとの仏ならまさか矢が当たることはないでしょう。あれは妖怪ですよ」
▼夜が明けて、血の跡をたどっていくと100mほど先の谷底に大きな狸が胸をとがり矢で射抜かれて死んでいるのが見つかった。聖とはいっても無智だったので、このように化かされたのである。一方、ただの猟師であっても思慮というものをもっていたので、狸を射殺して正体を暴くことができたのである。
by tomhana0906 | 2012-02-02 06:40

