日々の雑記帳:108
メンチカツ物語

▼あまりにもポピュラーな存在であるため、今更メンチカツを見て『このメンチカツはどうやって生まれたのか?』なんて考える人は少ないだろう。よく観察するまでもなくメンチカツはハンバーグの素に衣をつけて揚げたもの。すなわちハンバーグフライである。

▼つまりメンチカツのルーツはハンバーグのルーツであるドイツのハンブルグということになる。そして、あまりご存知ではないと思うが、そのハンブルグのハンバーグにも更にそのルーツが存在する。肉を細かく刻んでソースをかけて食べるタルタルステーキだ。

▼つまり、お肉屋さんのお惣菜部門の庶民派スターとしてお馴染みのメンチカツのルーツは13世紀、ヨーロッパにまで攻め込み、置き土産にタルタルステーキの風習を残していったモンゴロイド系民族であるタタール人/今のロシアの東部やモンゴル辺りを中心にした民族らしいにまで遡ることとなるのだ。

▼まさか『今日は面倒だからお肉屋さんでメンチでも買ってきて』などと慣れ親しんでいたメンチカツにこのような壮大な歴史があったとは驚きである。遠く13世紀のタタール人をルーツにタタール→ドイツ→アメリカ→日本と遠大な旅路を経て伝わったハンバーグは明治時代の日本において、めでたくメンチカツとなる。

▼残念ながら、誰によって?いつ?という正確な記録は残されていない。しかし、ハンバーグに初めて衣をつけたのは老舗洋食屋「銀座煉瓦亭」だったと言われている。明治末期のことである。それ以前には煉瓦亭において既にトンカツが生まれていることから、かなり信憑性のある話だと思われる。そして料理名はミンツ・ミート・カツ/ひき肉カツだった。

▼メンチカツの語源はこの呼びにくい名前が江戸っ子の間でミンツカツ→メンチカツと変化していったものらしい。その後、メンチカツは関東に修行に来ていた神戸の料理人によって関西にも伝えられた。その際、聞き間違いによってメンチがより英語に近いミンチになりミンチカツと呼ばれるようになった。関西では今でもこのミンチカツが正式名称だが、別の理由もあるらしい。

▼その理由とは「メンチ」という言葉。関西において「メンチ」とは「メンチをきる」といった、かなり限定的で緊張した場面で使われる地域用語である。これに「カツ」をつけると本来のメンチカツとはかなり違った意味合いになってしまう。そのため、料理人自らが「ミンチ」と発音を変えたというのだ。メンチカツ、実に逸話の多い食べ物である。
《08.1.28》

桑名

▼桑名は室町時代から伊勢湾の要港として商業が発達し、都市として繁栄した。大永年間/1521〜28には寺や家々の数が数千もあったと言われ、永禄年間/1558〜70以前から堺などと並ぶ自由都市的な性格を持つ町でだった。

▼天正初年/1573に滝川一益が城主となってから城下町的な性格を持つ様になる。その後、天正18年/1590に氏家行広が2万5000石をもって城主となったが、関ヶ原の戦いの時に石田三成方に付いた為に敗北し、除封となった。

▼翌年には徳川四天王のひとり本多忠勝が桑名城主として10万石で入封。町割りや区画整理、治水工事などを行なって城下町を形成する。忠勝の跡を継いだのは嫡男忠政だが彼は大坂の陣で功績があった為に元和3年/1617に播磨国姫路へ移封となった。

▼本多忠政の後、桑名を治めたのは徳川家康の異父弟にあたる松平定勝だった。定勝は家康の母である御大の方が家康を生み、離縁された後に久松家へ再嫁して生んだ子であった。その為、松平姓を許され、徳川家の家門として扱われた。

▼松平定勝は山城国伏見から11万石で入封、隣接の長島領7000石も拝領した。寛永元年/1624に嫡男定行が襲封するが、長島領は実弟の定房に与えた。その後、定行は寛永12年/1636に伊予松山へ移封となる。

▼その後、定勝の3男松平定綱が美濃大垣から11万3000石で入封してきた。定綱は水田開発や農民の保護、家臣の教育に力を注ぎ、藩の基礎を作り上げた。更に、定綱は後に代々家老となる吉村家・服部家・久徳家といった有力な家臣を召し抱えた。

▼定綱の後は嫡男定良が継ぐが、病弱であった為に26歳で亡くなった。他に子供のなかった定綱は伊予松山の松平家から定重を迎えた。彼は53年間に渡り桑名を統治する。

▼定重在位中には度々災害が起きるが、その復興に力を発揮した野村増右衛門と旧来の家臣との確執から事件が起き、この事件が幕府の咎める所となり、定重は宝永7年/1710越後高田へと移封となった。
《08.1.29》

銀河系2

▼七夕のひこ星は17光年、おり姫は26光年彼方にある。という事は26歳の人がおり姫を見たとするとその輝きは自分がこの世に生をもった時に放たれた光ということになる。

▼冬の星座の代表と言えるオリオン座のリゲル、600光年の距離にあるリゲルが光を放ったのは室町前期で足利義満が金閣寺を立てた頃。また、北極星になると1100光年も離れている。今晩見る北極星の光は平安朝前期の光なのだ。

▼私達は遠くにある星を観測することによって宇宙の過去を見ているということになる。140億光年の彼方にクェーサーと呼ばれる謎の天体があるがそれ以上遠くにある天体は観測されていない。

▼クェーサーは太陽の様な恒星ではない。つまり、140億年前の宇宙では銀河のような星はまだ生まれていなっかったと言うこと。そして、さらにその前には光を出す天体さえ出来ていなかったのではないのか。

▼そんな銀河系を真上から見ると渦を巻いたような形で、横から見ると中央がふくらんだレンズの様な形をしている。銀河の直径は10〜16万光年、銀河の中心から太陽系までの距離は28000〜33000光年、太陽系が位置するあたりの厚さは15000光年もある。

▼そんな銀河系には2000億個もの星があり、宇宙には1000億個以上もの銀河があるらしい。 銀河系の中心にはとてつもない大きさの強力な磁場があり、太陽の100兆倍という電波エネルギーが存在している。

▼ということは銀河系の中心には巨大なブラックホールがあるのではないかと考えられている。ブラックホールは何者をもそこから脱出できないほどの強い重力を持っている。光でさえも吸い込んでしまい観測すら出来ない謎の天体だ。

▼そんなブラックホールに星が落下する直前、膨大なエネルギーを放出するのではないか?と、考えられているが、永遠に銀河系の中心は見ることは出来ないのかも知れない。
《08.1.30》



▼天平年間、聖武天皇の眼病平癒のため光明皇后は奈良の新薬師寺を建立した。新薬師寺の新は霊験灼/あらたか=新の意味だ。この寺の本尊の眼は視力回復の発願からか、両眼が特別に大きく見開かれた状態で彫られている。そして、病と死が背中合わせだった古代において、病苦を取り除くという薬師如来は広く信仰を集めた。

▼人は『神仏にすがっても健康で長生きしたい』と願い続けてきた。時の権力者も病魔には勝てず、その死はしばしば歴史の分岐点となった。平安中期、3人の娘を天皇に嫁がせ栄華をほしいままにした藤原道長。彼の日記『御堂関白記』には50歳を過ぎて『二、三尺相去る人の顔見えず』と視力低下を嘆き、別の公家の日記の中でも道長は『口乾無力/口が渇き脱力感がある』と訴えている。

▼いずれも糖尿病の合併症の典型的な症状だ。水を欲しがることから糖尿病は昔「飲水病」と呼ばれていた。彼の場合、飲酒や過食と運動不足、日々決断を迫られるストレス。糖尿病の発症因子は全て揃っていたようだ。数々の政変もクリアし、一族が次々と死んだ疫病も逃れた強運の持ち主も最後は敗血症を併発し、62歳で死亡した。

▼道長の死以降、貴族社会が衰退し武士の台頭を招くことになる。その頃でも食事制限や適度な運動などの生活改善をしておれば、道長も10年や20年は延命できたはずだ。そうすれば源氏や平氏に対しても巧妙な手を打って歴史は変わっていたかもしれない。

▼病と闘いながら、名作を残した芸術家もいる。『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴は虫歯に悩まされた。日記には悲痛な内容が続く。とうとう61歳で歯が全て抜け落ち、入れ歯師に総入れ歯を注文した。当時の入れ歯はツゲ材を彫ったもので代金は1両3分。米1石分の大金だった。73歳の時には白内障とみられる眼病で失明し口述筆記によって作品を仕上げた。

▼そして、現代の死因のトップであるガンは古代から存在した。ガン発症を待たずに別の病気でどんどん死んでいったから目立たなかっただけだ。硬い塊/腫瘍が出来ることから岩/ガンとも呼ばれた。維新の元勲、岩倉具視は食道ガンだった。1883年にドイツ人医師ベルツの診察を受けた時は既に末期だった。憲法起草という大事業を控えていた岩倉は『包み隠さず話してほしい』と申し出た。

▼ベルツは熟考した上で『お気の毒ですが、ご容体は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、あなたがそれを望み、また確実なことを知りたい訳があるからであり、死を気にされるような方でもないからです』と伝えた。岩倉は冷静に聞き『ありがとう。ではそのつもりで手配しよう』と答えた。伊藤博文への遺言を急ぎ1ヵ月後、亡くなった。記録に残る日本で初めての「ガン告知」だった。

▼現代、病因は科学的に分析され、移植や遺伝子治療など最先端医療が試みられ、日本人の平均寿命は男性78歳、女性85歳と世界一の長寿国となった。しかし、今も新薬師寺には病気回復を願う参拝者が絶えず、病の苦痛や恐怖も平安時代に描かれた病草紙の頃と大差はない。

▼通称「釘抜/くぎぬき地蔵」。石像寺の本尊である地蔵菩薩は両手の激痛に苦しむ商人の夢枕に立って八寸釘を示した後、完治させたという伝承から「苦しみを抜き取る寺」と信仰され、今も病の治癒を願う人たちが全国から訪れる。しかし、ここに来る人達はひたすら神仏にすがって、というのではない。病から逃れようとしているのではなく、病と向き合い前に進もうとしている。

▼どんなに医学が進歩しても病気と無縁になることはまずないが、そこから新たな希望を見いだす力も人間には備わっているのだ。逆説的に言えば「病む」ことは生きている証でもある。病という試練があるから人は乗り越えようとしてきた。病と人のかかわりは古くて新しい。
《08.1.31》

金持ち

▼16世紀の戦国時代、日本では戦国大名達が覇権を争って何よりも必要だった軍資金を得るための金銀ラッシュが始まった。次々と掘り進められる金山・銀山を関が原の合戦後、たちまち掌握したのが徳川家康だ。

▼古文書を丁寧に調べてゆくと、何と家康の資産は600万両に上まわっていたという。現在のお金に換算すれば1両約35万円だから、家康は約2兆1千億円の大富豪だった訳だ。この資金があればこの世でできないことは何もない。

▼天下を統一し征夷大将軍になった後も豊富な資金が徳川幕府を支えた。にもかかわらず晩年、家康の残した言葉は『人の一生は重荷を背負うて 遠き道を行くがごとし』だったようだ。自身の生涯を振り返って金や権力では苦しみ悩みの重荷から死ぬまで逃れられなかった悲哀を表している。

▼私達の人生も推して知るべし。本当の幸せはどこにあるのでだろうか。『私の生涯は黄金のじゅうたんを敷き詰めたトンネルの中を走ってきたようなものだ』大富豪といえば「海運王」オナシスは1975年、75歳で世を去った。

▼彼の遺産は1兆円といわれ、いかにも大金持ちの言葉は更にこう続いた。『トンネルの向こうには幸せがあると思い出口を求めて走ったが、走れば走るほどトンネルもまた長く延びていった。幸福とは遠くに見える出口の明かりなのだろう。だが、黄金のトンネルからそこにはたどり着けないのかもしれない』

▼睡眠3時間で猛烈に働いて20代後半には億万長者になり、『金は道徳よりも強い』と豪語し、手段を選ばず事業を広げて財産は小国以上だった。「世界の歌姫」マリア・カラス/オペラ歌手を愛人とし、故ケネディ大統領未亡人のジャックリーンを手に入れた。絶大な金の力だった。

▼しかし、晩年はそれらの女性とも別れ、 肉体も重症筋無力症に侵された。彼の最期を看取ったのはわずかに長女ひとりだったという。『金で本当の幸福は得られない』オナシスの人生はそう語りかけている。
《08.1.31》
by tomhana0906 | 2008-01-31 06:25
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