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★積もりに積もってアーカイブ。言うなれば過去の記録の保存庫です。


by tomhana0906


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[PROFILE]
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脳梗塞を発症してはや10年目を迎えた。肉体的には負い目のようなものも確かにあるが、気分的はそうでもない。耳の奥から『御破算に願いましては』という甘い囁きは聞こえてこない。この病気になって、誰かに追われるかのように無我夢中にやってきたこれまでの人生を今一度、見直すいい機会を与えてくれた事だけは確かだ。どんな人でも人生の終わりを迎えなければならない。私もその時が来るまで悔いのない人生を送りいたいと願うばかりだ。

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[人生の御負け]
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総ブログ全5632話
《2012.2.29現在》
NEWS! 最近、全面的に見直して、完全ではないものの一応目次として耐えうるものにしたつもりです。ぜひ一度ご覧ください。

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[CONTENTS:人生の足跡]
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[リハビリ日記]人に言えない脳梗塞の後遺症と戦う日々の話など‥

[名古屋巡礼記]ひとりで巡り歩いて来た篤き信仰の記録を集大成‥

[名古屋見聞録]名古屋人も名古屋人でない方も必見の話題が満載‥

[達人への道]『人生は達観だ』と言い続けて久しい私の放浪記‥

[GOB備忘録]時代の先駆者だったグッド・オールド・ボーイズ‥

[私だけのCD]珠玉の名盤『BIN'S CD』1枚1枚にまつわる秘話‥

[埋もれた名盤]忘れ去られた名曲を私の篤い思いで蘇らせたらな‥

[私の読書感想]人生の峠を越えてきた男の見方と読方を紐解くと‥

[心の曼陀羅]歴史の中での名もなき人々が織り成す心の曼陀羅‥

[MANHOLE]ある日、立ち止まった私の足元で奴等が微笑んでいた‥

[弔いのカタチ]棺桶に片足を突っ込んだことのある私だからこそ‥

[猫のアルバム]神の思し召しがあったからこそ出合えた円らな瞳‥

[遠い日の記憶]貴方は子供の頃のことを今でも覚えていますか?‥

[歴史のオマケ]長年鍛えた心眼で見極めた秘宝の数々をご開帳だ‥

[フォトレター]日々の写真に思いを託して朝も早よから散歩です‥

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[CONTENTS:人生は勉強]
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[日々の雑記帳]思い付くまま気の向くまま巷の影から探してきた‥

[知らない物語]世の中から忘れ去られてしまった日陰に咲いた花‥

[時代は江戸時代]テレビの時代劇では判っていても、真実は何も知らない‥

[補習:江戸時代]江戸時代を再発見するための勉強だと思ってくれ‥
江戸の┃歴史┃秘話┃言葉┃

[甦る激動の幕末]私が生まれた年の100年前はペリーが浦賀に現われた‥
幕末の┃実像┃攘夷┃写真┃

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[CONTENTS:人生はオマケ]
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[ポートレート怪物編]忘却の彼方からこつ然と甦ってきた怪物の正体は?
○歴史上の人物は ココ

[クイズ日本人]狭い日本に生まれながら出身地によってこの違いは何?

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[更新記録]
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2009.01-06:363話
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日々の雑記帳:132

餃子物語

▼小麦粉で作った薄い皮で肉や野菜などを包んで半円形にし、それを焼いたり、蒸したり、茹でて食べる中華料理と言えば、餃子だということは誰でも知っていることだ。

▼餃子と言えば日本では宇都宮市がなぜか「餃子の街」として知られているが、これは宇都宮市の職員が市内での餃子消費量の多さに目を付け、これを町起こしに使おうとキャンペーンを行なったことが始まりらしい。

▼しかし、なぜ餃子が愛されていたのだろうか。これには諸説あるようだが、有力なのが戦時中、宇都宮に駐屯していた陸軍が中国で味わった餃子を地元の宇都宮に伝え広めたという説だ。

▼また、広めるための素地になったのが、宇都宮では餃子に必要な小麦とニラの全国有数の生産地だったということもあったのかも知れない。余談だが、個人的には餃子よりシュウマイの方が好きだが。

▼餃子の歴史は驚くほど古い。紀元前6世紀頃の中国の春秋時代には既に食べられていたという。そして北朝/439〜581年の時代には現在のような半月形の餃子が普及し、隋/581〜618年や唐/618〜907年の時代には庶民の間でも水餃子が盛んに食べられるようになったようだ。

▼ちなみに、中国では餃子を正月に食べる習慣がある。餃子という文字を分割すると「食」「交」「子」に分かれるが、その意味は古い年と新しい年が交わる子/ねの刻/0時に食べる物となる。つまり、正月を迎えた時に最初に食べるものが餃子なのである。

▼現在でも大晦日に家族が集まって沢山の餃子を作って年が明けると茹でて先祖に供えた後、皆で食べながら新年を祝う姿が見られるという。中国では餃子は日本のお餅や雑煮、おせち料理のような存在なのだ。

▼日本において、餃子が庶民の食べ物として広まったのは戦後のこと。宇都宮の餃子事情で紹介したように戦時中に多くの日本兵が中国に渡り、そこで餃子の存在を知り、戦後日本に帰国した人々が餃子の店を出し始め、日本でも人気料理として知れ渡るようになった。

▼ちなみに、中国の餃子と日本の餃子は形や味が異なる。日本では薄い皮に肉や野菜、ニンニクを入れ、主に焼餃子として食べる。一方の中国では厚めの皮に魚介類など多彩な食材を入れ、主に水餃子や蒸餃子にして食べるのが普通だという。

▼この違いは実は日本の戦後事情と好みが大きく影響しているという。焼餃子が主流になった理由は戦後の食糧難の中にあって、油で焼くことで少ない量でもより多くの満足感を得るためだったらしい。

▼薄い皮にニンニクや肉を入れるのは日本では米が主食であり、ご飯のお供としてパリッと焼けた薄皮で濃い味が好まれたためと言われている。くどいようだが、個人的には餃子よりシュウマイの方が好きだ。
《08.6.7》

深川

▼江戸では吉原以外の場所で娼妓を置くことが禁止されていたが、江戸4宿/品川、内藤新宿、板橋、千住の宿場町ではひとつの宿に付き2人の飯盛/食売女を置くことが許可されていた。飯盛女は泊まり客に給仕するとともに性的なサービスもした女性のこと。

▼ただ1軒に付き2人というのは建前で、実際は多くの飯盛女を抱えるのが普通だった。そのため江戸4宿は飯盛女を求める男達でも賑わっていた。その他に最大の岡場所を抱えていたのが深川である。 深川は隅田川河口付近の左岸にあり、現在の東京都江東区のほぼ西半分にあたる。

▼江戸の下町に含められるが、本所とともに「川向う」とも呼ばれることがある。徳川家康が入府した頃の深川は海浜や干潟だったが急速な埋め立てにより開発された。特に河口に近いため問屋・倉庫が多く、また貯木場としての「木場」が広がるなど非常に特色のある地域として発展していった。

▼深川の開発が進むと寺院や仏閣が次々と移転してきた。同時に松尾芭蕉、山東京伝、滝沢馬琴、英一蝶、二世豊国、四代目市川団十郎など多くの文人墨客が住み、文化の発信地としても重要な役割を果たすことになる。

▼この深川は色町としても有名だった。富岡八幡宮の門前町だった深川は風俗の取締りが緩かったため、料亭では遊女が同席するようになり、安永年間には吉原の北里に対し、深川を辰巳と呼ぶほど花柳界が隆盛を極めた。辰巳とは江戸城から見て深川が辰巳/東南の方角にあったことに由来する。

▼吉原では花魁を筆頭にその豪華さを売りにしたが、深川では淡泊を良しとし、色よりも芸を売ることを第一とした。こうした深川独特の情緒が洒落本の流行とともに広がり、深川の芸者は辰巳芸者、あるいは羽織を着用していたことから羽織芸者と呼ばれ、粋と意気地で人気を博した。

▼花柳界だけでなく深川には岡場所も多かった。永代橋から富岡八幡宮には岡場所が散在し、土橋、仲町、新地、石場、櫓下、裾継、佃の岡場所は「深川七場所」と呼ばれ、最盛期には約500人以上の娼妓がいたという。

▼深川の岡場所には高級な店も多かったが、それでもひとりの客に座敷ひとつをあてがうことはなく2〜人3の相部屋は普通で、多い時は5人以上との相部屋もあったという。その時には寝床の仕切りは屏風で行ない、これを「割床」と称した。

▼深川女郎は稼ぎによって位が付けられていた。10日間を一区切りとして、最も稼ぎのよかった遊女を板頭、2番目を板脇と呼んだ。こうした等級制は次第に江戸全域に広がり、岡場所の共通用語になっていった。

▼初めて店にあがる娼妓は新妓と呼ばれたが、深川では京下りの新妓が喜ばれたため関西地方の茶屋と提携することもあったという。ここにも深川の特色をみてとることができる。
《08.6.9》

エレベーター物語

▼人間は誰しもどこかで『楽をしたい』という気持ちがあるはずだ。ほんの少しでも手間を掛けず、頭を使わなくてもできる方法があると利用したくなるもので、例えば最近では玄関や廊下で人間を感知すると自動的に灯りが点いたりする仕組みも珍しくなくなってきている。

▼『運動不足だぁ』なんて言いながらわざわざ会費を払ってアスレチックやスイミングスクールに行ってみたり散歩に出かけたりする一方『楽をしたい』という気持ちがあって、このことが電化製品や自転車、オートバイ、自動車などの発明品を生み出してきたとも考えられる。

▼そんな発明のひとつに『部屋がそのまま上に動いてくれたら楽なのに』という発想で生まれたのかどうかは定かでないが、今では大変便利に利用しているものがある。今は当たり前のように使っているエレベーターにだ。

▼エレベーターを考案したのは誰か?それは誰もがご存知のアルキメデス。浮力の発見や正確な円周率を求めたことで有名な彼がエレベーターを発明したのは紀元前236年のことと記録されている。ただし、作られたのは滑車とロープを使った荷物専用のもので、今でいう業務用エレベーターとして使われていた。もちろん人力。

▼こうして古代ギリシアのアルキメデスによって生み出されたエレベーターの仕組みだが、ここに動力が付加されるまでには更に2000年の歳月が必要だった。2000年後、ここでまた有名人が登場する。その名はワット。電力のワット数にも名前が冠せられているジェームス・ワットその人である。

▼彼は1769年にその後の世の中を一変させた蒸気機関を発明した。そして1835年にエレベーターにも蒸気機関が導入され、その後世界中で飛躍的に拡がっていくこととなった。日本に初めてエレベーターが登場したのは1842年のこと。江戸末期、明治維新より30年くらい前のことで、場所は水戸偕楽園の休憩所「好文亭」。

▼水戸藩主徳川斎昭/徳川慶喜の父親によって食事などを運ぶ小さなエレベーター/動力は人力が付けられたのが最初と言われている。アルキメデスから遅れること2100年後の出来事だった。日本初の電動式エレベーターは1890年11月10日に浅草に完成した12階建ての展望台「凌雲閣」に設置されたという。

▼しかし、エレベーターのことなど全然知らない当時の役人によって危険物と判定されて、一般の人はほとんど使うことはなかったという。ちなみにこの11月10日は「エレベーターの日」となっている。
《08.6.10》

八百長

▼相撲の世界から出た言葉に「八百長」という言葉がある。そして、この言葉の語源は明治時代の水茶屋「島屋」の主人、斎藤長吉だ。

▼なぜ彼が語源かというと、彼は以前、八百屋をしていたので「八百屋の長さん」こと八百長となって、時の相撲界の権力者7代伊勢ノ海五太夫に碁をわざと負けてやった代わりに相撲桟敷方の利権を得ていたことが判明したからだ。

▼ちなみに、斎藤長吉は1901年に亡くなっているから八百長という言葉はそれ以前から使われていることになる。なお語源には他説もある。

▼相撲以外にも使われるようになった八百長の例は明治時代に見られ、1906年の新聞記事に『ワザと決勝点間際で自分から落車し、暗々裏にこの勝負の八百長である事を示して勝を長官に譲った』とある。

▼更に転じて、なれ合いの意味にも明治末から使われていたようで、『この筆者には雷同や八百長、卑しい党派根性などはなさそう』とある。

▼調べてみると語源には斎藤長吉ではなく根本長造と言っている説もある。そして当初、八百長という言葉は大嘘つき、ごますり、ピンはねというような意味で使われていたものが、インチキ勝負の意味になったのは1910年頃だという。

▼該当する場所を調べると、報知新聞に『1月場所において看過すべからざるは八百長の少なからざりし事を筆頭とす』とあって、板垣退助伯が友綱貞太郎を訪ね、八百長を戒め、力士達に八百長相撲の禁止を勧め、そして誓約書を書かせた。

▼同紙は『断じて八百長相撲をとらせざる事を言明せるは相撲道のため、すこぶる結構なる事なり』と結んでいる。また、1902年に出版された鎗田徳之助『日本相撲伝』に八百長を扱った文章がある。斎藤長吉の名は出てこないが、同一人物を指していることは間違いない。

▼本文に『幾ら幾らの八百長を取られたからうまい割にも行かぬと、あたかも賄賂の代名詞のごとく使用せしより、この言葉の広がりて今は日本国中相撲に関係する人々の八百長の語を賄賂の代名詞であるという事を知らざる者はあらざるべしとなり』とあり、八百長は賄賂の意味と書いている。
《08.6.11》

温泉の入り方

▼風呂場での死亡者数は交通事故よりも多いと言われるが、温泉でもまかり間違うと死亡するという危ない入浴法をしている人がいる。まず、身体が温まる前に打たせ湯をしちゃう人、それも、いきなり頭からいってしまう人がたくさんいる。これでは血管が切れてしまっても不思議じゃない。まさしく自殺行為だ。

▼打たせ湯は身体が充分温まった後にすることで、腰、背中、肩を3回くらい繰り返してから首筋、頭の順にするといい。同様に危ないのが水風呂で、慣れている人でない限り、サウナの後などに気持ちがいいからといって入る水風呂はNGだ。なぜなら、水風呂は血管や心臓に多大な負担をかけてしまうからだ。そして、血液がドロドロ状態の朝、起き抜けに温泉に入るのも危険。まずは水分をたっぷり補給してから入ることを薦める。

▼また、湯あたりで具合が悪くなる場合もある。ただし、1泊2日程度での湯あたりは単なる「のぼせ」であって、この場合は頭を冷やしたり、水分を補給したりすれば治るはず。しかし、連日温泉に入っていると、3日から10日程で頭痛や吐き気に襲われたり、古傷がうずいたりするなどの反応が出ることもある。

▼場合によってはかなり辛いので、身体の具合が悪くなったとか、病状が悪化したと思われがちだが、実はそうではない。湯あたりとは決して悪いことではなく、温泉成分と身体が馴染み始め、身体の中にあった毒が外に出始めたサインなのだ。しばらく入浴を差し控えていれば、たいていの場合収まるものだ。ただし、収まらない場合は病院へ行くことを薦める。
《08.6.12》
by tomhana0906 | 2008-06-12 06:11